彼女は、深いため息をついた。
「雑務に追われて、本務に打ち込めないんですよ。」
いったいどんな雑務が彼女を苦しめているんだろう。
「雑務」とは何?
「本務」とは何?
それが明確に区分けできるか。
私の公立学校教員時代、
20代は、放課後の時間のほとんどは、クラスの生徒と何かをしていた。
その一つに、学級新聞づくりがあった。
生徒は自分たちで新聞社を作った。
20代から30代にかけては、学級文集づくり。
そして40代は、学級通信の発行。
義務付けられているわけではなく、自分のやりたい意思で、やっている活動だった。
学級通信には、生徒たちの意見、感想をふんだんに入れ、
それらによって紙上討論を組織した。
通信の各号は、10〜30ページあり、1年間に40号以上発行する。
したがって、ぼくはいつも遅くまで学校に残っていた。
学校一のヤンチャを受け持つのが自分の仕事になることがしばしばあり、
それは他の教師が敬遠する結果でもあったが、
強烈なゴンタを自分のクラスに抱えることのできる若干の自信が他の教師よりも強かったこともあって、
クラス編成の会議の中で、そういう成行きになっていくのが毎度のことだった。
授業からはみだし、問題を起こす生徒の家を訪問して、
信頼関係をつくっていく、
それは夕方から夜にかけての活動になった。
親が仕事を終えている、家にいる時間というと、夜になる。
休日や休暇には、よく山へ行った。
クラスのハイキング、
ゴンタ連中とのキャンプ、
不登校の子が出現する1980年代は、その子を含め山へ入って籠作りしたこともある。
フジづるをとり、それで籠を編む。
結局そのような活動によって、
クラスは変革していった。
このような活動は、自主的、自発的な活動であったから、
「本務」でもなく、もちろん「雑務」と言えるものでも決してなく、
教育管理の観点からみれば、勝手な教育活動と言えるものだった。
「それは雑務だ」として、切り捨てていることのなかに、重要な本務が含まれていることもあろう。
「それは本務だ」とするもののなかに、無駄な雑務があるだろう。
「本務」だけに精を出していると思っていても、中身がきわめて不十分で、怠慢の批判を受けても仕方のないこともある。
「雑務」を辞書で引けば、
「主だった任務以外の雑多な仕事」(集英社・国語辞典)
「本来の仕事以外の、いろいろの細かな事務」(三省堂・新明解国語辞典)
「本来の仕事以外の、細々とした雑多な仕事」(岩波書店・広辞苑)
とある。
「雑務」は、「本務の周辺に存在する、本務を進めるための補いの仕事である」と規定すれば、
「雑務」を、すべて不要な仕事だとして排除することはできない。
しかし、最もやりたい活動ができず、生徒とかかわることのできない「雑務」に追われていては、
「雑務」は障害になる。
「教育活動の本務は、ここまで」というような範囲は規定できない。
それぞれの教師の創造性が開拓していくものである。
そこに自由度が関係してくる。
管理をきつくし、仕事をこまごまと規定して押しつければ、やる気が失せはしても、情熱的な実践は生まれない。
まったくやる気のない人、創造性のない人、
狭い範囲で、型どおりのことしかやらない人、
沈滞はそうして生まれてくる。
自由度と、創造度が相乗効果をあげる教師の集団をどうしてつくっていくか、
それが教育の重要なテーマになっているのだが、
現実はどうだろうか。