言葉の起爆力と伝承力

じゃがいもの収穫

 正之さんから送られてきた文章がぼくの心をひいた。正之さんは小説を書いてきた。それはひたすら自己自身の人生と人間と生き方を熟視熟考するものだった。それゆえ作品はおのずからなる孤高の価値をはらんでいる。だが、今の社会で世に出ることは難しい。惜しいことだ。
 最近正之さんはエッセイ風の短文を書いている。彼には彼の文体があり、文章はなかなかのものだ。彼の思想と精神が、彼のがっしりとした体躯に似て、鋭い迫力をもってにじみ出る。若き日、教師であったが、職業としての教師を辞めて人間と社会の理想を追って生きてきた。それゆえの転換と挫折も味わったが、その人生を自分自身でどう考え、どう評価していくか。共通体験を生きた自分にしても、その評価は単純ではない。
 今日、彼はこんな文章を書いてきた。それはぼくの心を引いた。

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    言葉の起爆力と伝承力――「ニーバーの祈り」

 言葉とは不思議なものである。中には珠玉として起爆的伝承力を持ってしまうものもあるから。
 先回<ボキャブラリーの飢餓感>をいだいていた時期のことに触れたが、それは多くの言葉の集積の中から珠玉のような言葉を発見したいという希求も絡んでいる。最近HPで紹介した<永久革命者>埴谷雄高の言葉もそうだった。それは図書館で見つかったが、私が敬愛する<沖仲仕哲学者>E・ホッファーの物(断章部分)はそうはいかなかった。探し回ってようやくお借りできた本を必死にコピーした。

 おそらくこの飢餓感は人によっては食への欲求に匹敵することもあるのではないか。それでアウシュビッツから帰還できたイタリア人プリーモ・レーヴィのことを思いだした。彼の言葉はかなり以前にCDで保存したはずだが、どこにあるのか見つからない。趣旨は、あの飢餓寸前の収容所の中でも「ダンテの『神曲』のある節を諳んじている人がいたら、私は自分の食事を与えることも辞さなかった」というのである。それは解っているのだが、正確な文が手元にない間は落ち着けない。

 どうも話が極限的になってしまうが、その<伝承力>ということで、最近不思議な因縁を感じたことがある。小生の高校教師時代の教え子と四十数年ぶりに出会った。きっかけは小生の自己哲学HPを見つけたことだった。彼は定時制高校教師に在職し、来年定年退職する。在日家庭で育ったこともあって社会問題にも関心を持ち、組合運動にも関わってきた。

 その彼は、小生にはほとんど記憶がない授業中の癖や余談について克明に憶えていた。さらに小生を驚かせたのは、以下の文言を黒板に大書していたという。

    神よ
    変えることのできるものについて
    それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ
    変えることのできないものについては
    それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ
    そして
    変えることのできるものと 変えることのできないものとを
    識別する知恵を与えたまえ

 この<祈り>の作者はラインホールド・ニーバー。「キリスト教的リアリズム」として知られる神学者であり、牧師である。その思想は、冷戦時代のアメリカ対外政策のリーダーたちにも影響を与えたようだ。またこの言葉は、アルコール依存症、薬物依存症や神経症の克服を支援するプログラムに採用され、民衆レベルでも広がったというから面白い。

 以降、このニーバーの言葉が、教え子彼の「呟く一詩となり、人生行路の灯の一つになって」四〇年を経過していたというから、怖ろしい。というか、ある種の畏怖を感じる。いうまでもなくニーバーの思索と祈りの過程で生まれた、この言葉の<起爆力>がなければ、かくも伝承されるものではない。だからこれは言葉だけでも独り歩きできる力はあるが、小生の言動も微力ながら加わっているだろう。

 小生の教師時代は学生運動の後遺症が沈潜し、このニーバーやE・ホッファーの「情熱的な精神状態」が緩和剤として作用していた。そこから彼が何物かを感じたことについて、小生は何を思い何を考えたらいいのか。出会いの不可思議、その偶然性と必然性を前に、立ちすくむしかない。

 ただ一つ慶賀すべきことは、彼は何とか無事に定年退職を迎えられそうだということ。小生はそれらのいわば<警句>を抑え込んで、さらに<前進>した。その結果として、それらの言葉をまたまた熟読玩味する機会を与えられたといっていいだろう。


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 正之さんの人となりがこの文章に表れている。短かった青年正之の高校教師時代、彼は一人の教え子の人生に影響を与えていた。その人が忽然と現れた。この出会いと発見をぼくは驚き、うれしく思う。よくぞ正之さんを探し当ててくれたと思う。
 言葉のなかに生きているものがある。それを探し求める正之さん、
 「この飢餓感は人によっては食への欲求に匹敵することもあるのではないか。」
 眼を閉じてゆうゆうと諦観に生き、眼を開いて探求に生きる、正之さんの今の姿である。