手つむぎ

まったく偶然だった。
図書館の開館時間までまだ15分ほど間があったから、隣の文化会館に入ってみたら、
「美濃縞伝承会 作品展」と墨で書いた看板が出ていた。
入ってみた。
これは、これは、
会場周りの壁面には、手つむぎの木綿の反物や、着物、服がずらずら並んでいるではないか。
美濃の縞木綿。
真中に、手織りの織機で、おばさんが布を織っている。
道具が並んでいる。
見覚えのある綿繰り機が置いてあった。
以前、古民具を商う藤井商店のおやじさんが、この綿繰り機を修理していたのを見たことがある。
すべて木造りの、簡素な道具で魅力的だった。
大きさは、30センチ立方ほど。
その使い方がここに来てわかった。
これはいいところへ来た。


伝承会代表の倉田さんに実演してもらった。
「綿の実も自分たちで栽培しているんですよ。
江戸時代から、木曽川長良川にはさまれたここ輪中から美濃地方は、木綿の一大産地でした。」
説明してくださる倉田さんも、かなり高齢のようにお見受けした。
「白い綿花と茶色の綿花があるんですよ。」
茶色の綿花を織れば、茶色の布になる。
綿繰り機の二本の木の棒に綿花をはさんで、種を分離し、
綿打ち弓で、打って、ほぐす。
綿打ち弓の弦をブン、ブンとはじくと、綿は柔らかくほぐれた。
それを細長い棒状にして、糸車で糸に紡いでいく。
倉田さんは、糸車を回す。
綿棒をもつ指の間から繰り出す綿は、糸車の回転によって見事に細い一本の糸に撚られていく。
紡いだ糸で、機を織る。
織り機のおばさんは、張られた経糸(たていと)の間に、緯糸(よこいと)を織り込む。
出来上がった布は、きぬたで打って柔らかくする。
この日、それはなかったが、草木染めの工程もあるのだった。


手つむぎの過程が、よく分かった。
ぼくはしきりに感嘆の声を上げていた。
織られた反物の風合いのすばらしさ。
この根気のいる作業が生み出す素朴な芸術作品。
産業の発展は、このような文化を滅ばしてきた。
それが文化の発展と言えるのか。
伝承会の人たちは問いかけている。
会は、いま25人ほどだという。


「昔、昼は田畑で働き、夜なべで機を織りました。
月の明かりで、縁側で綿をくり、
綿を打ちました。
染めは、全部草木染めでした。」


玉ねぎの皮は、味のある黄色に染まった。
イチイの実も、ヨモギも、ナツメも、
アカネも、ソヨゴも、いい色になった。
たくさんの草木が反物を染めていた。
葉の色、実の色、木肌の色、根の色、
風の色、
水の色、
空の色。


2時間近くそこにいた。
帰りに、綿の種をもらった。
白い綿花と茶色の綿花、
ことし畑に播こう。
奈良にいた時も、綿を作ったが、結局それは布にはならなかった。


倉田さんは小学校や中学校にも出かけて、
子どもたちに伝統文化を講演しているということだった。
倉田さんに、ぼくの願いを話した。


「子どもたちが郷土の文化を学び、
それを作品にすることができれば、
その教育効果ははかりしれないものがあります。
織りの過程を学び、卒業するまでに自分の作品を作ることができないでしょうか。
郷土の伝統文化を、学校のカリキュラムに取り入れている学校があります。」


子どもたちの郷土への愛と誇りをはぐくむ実践。
手の文化と、制作の喜びを得る実践。
ぼくの話したことは、倉田さんにはいい励ましになったようだった。


「昔、ガンジーはインドで、糸車を回そうと、呼びかけましたね。」
倉田さんは、大きくうなずかれた。


ガンジーは、村で教育や公衆衛生を進めるプログラムを作ると同時に、
農民たちも村の産業を開発して自助努力せよ、と求めた。
 ガンジーが特に力を入れたのは、紡績と織物である。
『農民が村で糸を紡ぎ、衣類に織ることができれば、農業所得を補う収入源になる』
と説いた。
 ガンジーはインド国民に対しても、
手紡ぎ手織りの衣服だけを着て、
農民の大義を支持するよう呼びかけた。
 農民との連帯を示すために、ガンジーは一日も休まずに糸を紡ぎ、
手織りの衣類しか身につけなかった。」
       (「ガンジー 奉仕するリーダー」ケシャバン・ナイアー <たちばな出版>)