改稿 エッセイ『ドイツの環境、森を愛する人びと』



     五月の旅
  

 五月に、森の民の森の国を旅をしてきた。
 旧制松本高校出身のドイツ文学者・小塩節を育てたドイツ語教授の望月市恵は穂高に住んでいた。望月市恵は、北杜夫辻邦生、小塩節ら学生たちを育て、トーマス・マンの著作を翻訳し、人生の最後に小塩節と共同訳もした。
 第二次世界大戦が起こると、トーマス・マンはドイツを逃れナチスに抵抗する。戦後、小塩節はドイツに留学し、ドイツに住んで日本の文化大使を長年務め、マン没後も、晩年のマン夫人と交流を続けた。

 小塩節はドイツについて、こんな文章を書いている。

 「どんな町はずれにも、噴泉のそばに大きな菩提樹が茂っていて、五月ごろには花が蜜を生み、ミツバチがブンブンいっている。木陰には小川が流れ、青い流れのなかにはマスが矢のような速さで走っている。ドイツ人は森の民族だ。町々村々は必ず森に包み囲まれ、大都会でさえ、市街地の中に面積の五十パーセント近い森を茂らせている。森を間近にし、森のなかにいないと息ができず、生きていけない。彼らの食事は本質的に森の住民のものだ。ほんとうのドイツの料理は、ノロ鹿や野ウサギ、ハトの料理、堅い黒パンと銀モミや菩提樹の蜜と森のさまざまなベリー類のジャム、森に放牧してドングリを食べさせた豚のハムやソーセージだ。ドイツの森は、行けども行けども行きつくせない。シュヴァルツヴァルトの森は長さが百二十キロ、横の幅が六十キロの大森林である。私の住んでいた町も、一歩街を出れば、深い森と畑とがどこまでも続いている。ラインハルトの森は太古のままの千古不伐の自然である。」

  ヘルマン・ヘッセはこんな詩を詠んだ。


    短く伐られたカシの木
               ヘッセ

  カシの樹よ、
  お前はなんと切り詰められたことよ!
  なんとお前は異様に奇妙に立っていることよ!
  お前はなんと度々苦しめられたことだろう!
  とうとうお前の中にあるものは
  反抗と意志だけになった。
  私もお前と同じように、切り詰められ、
  悩まされても、生活と絶縁せず、
  毎日、むごい仕打ちをさんざんなめながらも、
  光りに向かって額をあげるのだ。
  私の中にあった、やさしいもの、
  やわらかなものを、
  世間があざけって、息の根を止めてしまった。
  だが、私というものは金剛不壊だ。
  私は満足し、和解し、
  根気よく新しい葉を枝から出す。
  幾度引き裂かれても。
  そして、どんな悲しみにも逆らい、
  私は狂った世間を愛し続ける。
    
    
    森の国の春

 ドイツの春(SPRING)は、人びとの喜びとともに湧きあがる。
 長い冬の眠りから覚めて、
 大地から湧きあがる泉SPRING、
 バネSPRINGのごとく跳ねあがり、
 木々は一斉に芽吹き、花咲く。
 まったく予想をはるかに超えたこの壮大な聞きしに勝る森の国。飛行機は果てしなく広がる森のなかの空港に着陸した。濃緑の針葉樹と浅黄を交えた新緑の広葉樹は、深々とあふれんばかりだ。都市に通じる高速道路も森の道だ。タクシーのドライバーが、途中の森を指さして、
「フォレストのフェスティバルが開かれているよ。店も出ているよ」
と言った。第一次・第二次世界大戦による破壊は過酷だったが、森を愛するこの国の人々は営々と森を再生してきた。森を歩き、都会も村も家々も樹林のマントに包んだ。木々は梢高く、自由に天を目指しうっそうと茂る。ほとんど広葉樹で、奥の方にモミやトウヒなどの針葉樹も見えた。木の種類の比率は広葉樹が7割ぐらいに感じられた。
 街に入ると、樹が優先して植えられ、街路樹は誇らかに茂り花が咲き、木と花は街を柔らかく豊かに包んでいた。川のほとりも、緑樹帯が包み込む。

 ハイネはこんな詩もつくった。

   つぼみ ひらく  妙なる五月
   こころにも  恋ほころびぬ
   鳥歌う  妙なる五月
   よき人に  思い語りぬ     (井上正蔵訳)

 小塩節が讃える。

 「木々の花がいっせいに咲く。リンゴ、、アンズ、桃、チェリー、スモモ、洋ナシの花が、全国土でいちどきに咲く。ありとあらゆる花が、大地いっぱいにそろって咲き匂う。菩提樹の白い花には、蜜蜂が飛び交う。木々の枝がしなうほどに咲く花が、どの一輪も明確で、さわやかな存在なのだ。ああ、これは日本の信州と同じだ、と私はいつも心に叫ぶ。それは木や草だけではない。そこに住み育ち働いて死んでいく人びとの、生全体のあり方にも通じているのではないか。人間一人ひとりの自立した個性、意志、自己表現。欧州アルプスの北の国々で求められるこういう人間性の価値は、日本人一般にはなかなか求めがたい。それが日本でもいつの日か自然に育つ時が来るだろうか。」
     
 街の広場にマイバウムと呼ばれる五月の樹の柱が、高々と立てられ飾られていた。それは豊穣を祈り春の訪れを祝う五月祭だ。青空の下、マイバウムを囲むように、野外のビヤガーデンがにぎわっていた。春を喜び讃えて、人びとはビールを傾ける。
 マイバウムは、日本の信州諏訪神社御柱祭を連想させた。八が岳からモミの大木を伐り出して、神社に立てる、御柱祭も春の祭りだ。ぼくはそこに、縄文人の祭りを見る思いがする。日本の昔、縄文人は森の民だった。
 

   アップルワインの酒場

 日曜日の住宅街は、ことのほか静かだ。そのなかにおいしい田舎料理が食べられる店があるらしい。リンゴ酒にソーセージがおいしいレストランはどこだろう。店の看板というものはなく、小さな標識があって、ここが店だと分かる。ドイツには、日本のようなけばけばしく派手で大きな看板やのぼりはない。猥雑な看板類がないから街がすっきりと美しい。
 木の茂る庭を突っ切ってドアを開けてみると、百人ほどの客がテーブルを囲んでいた。日中から、アップル酒やビールを飲んで、ワイワイガヤガヤにぎやかだ。家族みんなで囲むテーブル、友人たちで談論するテーブル。見渡しても空席はない。裏庭に出ると、簡易の屋根をふいたところがあり、そこにもテーブルがある。座れるテーブルが一つ。手作りのような素朴な板の長テーブルだ。一抱えもあるプラタナスが、どかんと二つのテーブルの間に生えていて、ポリの屋根を突き抜けて空に枝を広げている。枝からも幹からも新芽が出ている。何十年間かここに生えて、幹がテーブルの天板に食い込んでいる。それでも木を切らなかった。店の歴史がここにも潜んでいる。
 ぼくら夫婦はリンゴ酒にソーセージとジャガイモの料理を頼んだ。テーブルの対面にひげづらの老人が一人座った。注文を取りに来た店のおじさんは、大忙しだ。それでもニコニコ顔で威勢がいい。老人も何かを注文した。彼は白いあごひげに、眼鏡をかけ、どーんと太鼓腹。待つことしばし、老人のところへ先に料理が運ばれてきた。
「ウォー、ビッグ」
 思わずぼくは叫んだ。大きな肉の塊だ。そしてジョッキに入ったアップル酒。ぼくの声に彼はこちらを見て、
「ビーッグ」
 両手を広げてニコッと笑った。
「わたしの体はビッグだ」。
「ワハハハ」
 家内と二人大笑いすると、彼はソフトボールよりも大きな肉塊にフォークを入れて、
「ビッグボーン」
「ワッハッハ」
 ぼくらも大笑い。なるほど大きな骨らしいものが見える。彼は肉を食べ、酢漬け野菜を食べ、アップル酒をぐいっとやる。
 ぼくらの注文したのがやってきた。アップル酒、ほんのり甘く軽くておいしい。ソーセージも格別うまい。
 彼は肉を一人でもくもく食べている。一人暮らしなのか、家族はいないのか。この国にも日本のような高齢化社会が進んでいるのか。
「おいしい。おいしい」
 彼に言うと、うなずいた。
 あんたも相当いい年だな、わしより年いってるな、と彼は思っているだろうな、そんな気がした。
 ぼくらはほろ酔い気分になった。両手にノルディックストックをついて、電車に乗らず、新緑の風に吹かれ川を渡って、一時間ぐらいかけてホテルまで歩いて帰った。クロウタドリが、川沿いの豊かな緑地帯の、木のてっぺんで鳴いている。
 2016年のこの国の人口は8,270 万で、2011年より漸次増えている。高齢化率は2014年で21.25%、日本は25.78%。平均寿命は男性78.7 歳、女性83.4 歳(2015)。2030年にはこの国の高齢化率は29%に達すると見込まれている。その年、日本の高齢化率の推計値は31.8%になる。
   
 少子高齢化に対する危機感はこの国の社会全体の問題意識として国民の間で広く共有されている。シリア難民を八十万人近く受け入れたこの国。それによって移民排斥の勢力も生まれ、意見の対立も強くなっている。
 未来を透かし見れば、定住する移民は重要になってくるだろう。移民受け入れ方針を変えなければ、2060年には移民の占める割合は人口の9%となるという。移民がドイツ社会の構成員になれば、社会を創っていく重要なメンバーになる。
 日本では、これから超高齢化社会を迎えるが、「2025年問題」は、もうそこに来ているにもかかわらず、政治の緊迫感はまったく感じられない。要介護者が急増し、社会を支える若手が足りなくなる危機に対して、どうするか。


   歩く文化と街道の国

 
   
 未知への旅は、先入観・固定観念をどんでん返しにする。
 敗戦後ヨーロッパ随一の経済発展をとげた工業国というイメージと、今目の前に広がる事実とは、まったく違った。そこは古い歴史を刻む街道の国、森の国だった。
 昔から続いてきた歴史的遺産の街や森、美しい風景をつないだ長距離にわたる帯が「街道」と名付けられ、この国の全土にめぐらされている。自然と歴史遺産を守り復元してきた人びとの、祖国の美を讃える愛の結晶でもある。有名なのは、
 ゲーテ街道、全長400キロ。
 古城街道、全長300キロ。
 アルペン街道、全長450キロ。
 メルヘン街道、全長600キロ。
 ファンタスティック街道、全長400キロ。
 エリカ街道、全長300キロ。
 ロマンチック街道、全長350キロ。
 これらの距離、相当なものである。実際にこの街道を徒歩で歩くことは困難をきわめる。ちなみに日本での都市間で言えば、東京・大阪間は、約500キロである。
 これらの街道は、ドイツ政府や自治体が設定した「休暇街道」と呼ばれている総数150ルート以上ある街道の一部である。中には「アスパラガス街道」「バーデンワイン街道」「ドイツおもちゃ街道」というのもある。個人旅行者向けにガイドを整えた「個人の休暇を楽しむ」ために設定されたこれらの街道は、「家の中に引っ込んでいないで太陽の下に出て行こう」「街や森を歩き、自然の中に溶け込もう」という文化から生まれた。そういう願い、自然志向を人びとが共有している。ドイツ平原にはいたるところに森があり、南部はヨーロッパアルプスにつらなる。今も、アルプスには雪が積もっている。
 この国では、土日休日は多くの店、スーパーマーケットまでもが休業する。会社員も金曜日の午後4時になるとビールを飲み始め、さっさと帰宅する。5月になると、街のビアガーデンは大入り満員だ。7月になると、学校は長い長い夏休みに入る。子どもたちも、学生たちも、教師たちも、山や森、自然のなかへワンダラーの旅に出る。  
 「ワンダーフォーゲル」運動、すなわち「渡り鳥」運動はドイツが発祥の地だ。中世のドイツの学生たちが優れた先生を求めて、あちこちの大学を渡り歩いたことからこの言葉が生まれた。学生たちは背中に大きな籠を背負い、必要なもの一式を入れて、野宿しながら徒歩旅行をした。それにヒントを得て、1895年、ギムナジウム(中等学校)の生徒たちは、ギムナジウムの無味乾燥な授業に抗議し、血の通った生きた学びを求めて徒歩旅行運動を始める。旅をしながら各地の歴史遺産や文化遺産をめぐり、生物や鉱物、地質を勉強し、産業を学び、民謡を歌い、フォークダンスをして、事実・現物・現地の人に触れて若き情熱を燃やした。1897年、「ワンダーフォーゲル」と名付けられた運動は国の全土に広がり、学生たちは森を歩き、野営をし、山に登った。広がる運動は教育思想の内実を変えていった。ユースホステルはそこから生まれた。この運動が日本に入ってきたのは1930年代、そして第二次世界大戦に突入し、日本でもドイツでも運動はその間断絶した。戦後、運動は復活し日本の大学で活発に行なわれるようになった。
 1960年ごろ、日本のワンゲル部も山岳部と同じように山を登攀した。ぼくはその頃山岳部員だったが、山岳部とワンダーフォーゲル部の違いを、ひとりのワンゲル部の男に聞いたことがある。彼はこう説明した。
「山岳部はより高く険しく、点をめざし線を行く。ワンゲル部は、高きも低きも含め、より広く面を行く」
 そしてどちらも、より困難な、未知なる自然にチャレンジし、より美しき憧憬を追求した。
 ドイツには、高等職業能力資格認定制度のマイスター制度がある。マイスター資格は1年以上の実務経験を経て、ファッハシューレ(高等職業学校)で学び、修了資格を得る。修了年数はフルタイムの場合は2年間。
 以前、ドイツの若者が大工のマイスター資格を得る過程を取材したドキュメンタリーをTVで見たことがある。大工のマイスターを目指す若者が、2年間の実務経験を積む徒歩の旅に出る。定められた最小限の持ち物だけを背にし、たった一人野を歩き森を抜け、村から村へと渡り歩き、「何か仕事させていただけませんか」と家々を訪ねる。「家のここを修繕してくれ」「小屋を建ててくれ」など、何らかの大工の仕事を得ると彼はそれを完成させ、施主の実習証明といくらかの賃金をもらって旅費にし、次の村に向かう。こうして二年間の旅で必要な力をつけた若者は、マイスターとして資格を得る。この「武者修行」は、技術の修練であり、社会人として人間としての学びでもあった。社会が若者を一人前のマイスター、社会人に育てていくこの仕組みは、教育の重要な一つの姿を示して、感動的な映像だった。
 「ワンダーフォーゲル」運動の原点精神と通じている。


   サイクリングに行

 ICE(新幹線)に乗って、ビュルツブルグからローテンブルグへ行った。
 ローテンブルグは古い中世の地方城壁都市。駅から展望すると、小高い丘の上に街があり、教会の尖った塔がいくつか空に伸びている。街の周囲は城壁が取り囲む。千年の時を経た歴史遺産都市だ。
 城門を入ると長い年月で擦り減った石畳の道が縦横に走っている。一片20センチほどの石を敷き詰めた道だからいささかでこぼこしている。石の民家や木組みの家、教会の塔、店、公園、路地、古い歴史が降り積もっている。どこも完璧なまでの美しさというのが第一印象だ。宿は城壁内にとった。中世から続いている小さなホテルだった。
 この中世都市も戦時中に連合国軍の爆撃を受け、城壁の一部や市街地は空爆によって破壊された。被害が完全破壊に至らなかったのは、歴史的重要遺跡の価値を認識していたアメリカ軍司令官の想いがあったからだという。戦後多くの人びとの願望によって、街はまるごと復元がなされ、珠玉のような街になった。
 歩けば歩くほど心に感じられてくるものがある。この美しさは何だろうか。長い歴史と文化、今を生きる人たちの古都への愛、取り巻く森、いろんな要素が集積し、人びとの意志が創りだす環境の美だと思う。
 どこからかパイプオルガンの音色が聞こえてきた。誘われて入ったところは大きな教会だった。数人の観光客がいた。頭上高くにステンドグラスがある。オルガンの演奏は堂内の右上から聞こえてくる。二階に演奏者がいた。ぼくは床に並んでいる木の長椅子に座って、演奏を聴いた。オルガンの曲を聴きながら前方上を見ると、キリスト像があった。キリスト像を見つめていると、ふと頭に問いが浮かんだ。この国は今たくさんの難民を受け入れている。難民は更に今もヨーロッパをめざしている。世界中で戦火は絶えず、この今も人は死んでいる。
「なぜあなたはこのような世界になさったのですか」
 答えが心に生じた。
「それは、あなたがた人間が行なっていることです。その問いはあなた方人間自身への問いです」
 戯れの自問自答、人類はいつまで憎悪、戦乱、殺戮、飢餓の世をつづけるのか。
 ぼくは街の外の渓谷沿いにサイクリングしてみたいと思った。宿の廊下の掃除をしていた若者に貸自転車屋の場所を聞いて訪ねた。ストックをつき、城門の外へ出る。城壁の周りは緑地帯の公園になっている。30分ほど歩くと、自動車道沿いに店があり、自転車の調整をしている兄ちゃんがいた。借りたいと言うと、10ユーロだと言う。現金を払うと兄ちゃんが手招きするから後に付いて行った。裏庭の自転車置き場にはたくさんの自転車が並んでいた。兄ちゃんはぼくの身長を見て、選んだ一台をもってきた。大丈夫かねえ、ぼくはサドルにまたがってみた。が、サドルが高くて足が地面に着かない。
「デンジャラス‥‥」
 自転車ごと横に倒れて、走ってきた車が頭がい骨を粉砕する光景が脳裏をよぎった。何年か前、自転車を止めたときに足を下ろすと、そこが低くなっていたために足が地面に届かず、横転した経験がある。恐ろしい。
「もっとサドルの低いのがいい」
 ところが彼は「ない」という。
「チャイルド用は?」
 そう言うと、かれはまた並んでいる自転車の列を見に行って、一台を取り出してきた。またがるとこれはちょうど足も地面に着く。OK、これがいい。まずは試し乗り。ペダルをこいで走ってみた。すると、ペダルに乗せた足を逆回転気味にしたとたんにブレーキがかかった。あれ、これはどういうこと?。これでは脚を静止したままの走行ができないではないか。
 「日本では、足をペダルに乗せたままストップしてもスーイと走るよ」
 身ぶり手ぶりで説明すると、兄ちゃんは、
 「いや、この自転車は、少しでも足を逆回転させるとブレーキがかかる、両手でもハンドブレーキをかけられる、こがなければ足を乗せたままスウと進む」
 そういう意味のことを言った。そこでもう一度広場を乗って一周してみた。なるほど、がってん。ペダルに少しでも逆回転の力を加えるとブレーキがかかるが、足を静止していればブレーキはかからない。日本でいつも乗っているママチャリ同様に、すいすいと走る。ぼくはにっこり笑って、
「これで行くよ」
と、地図をお兄ちゃんに見せ、
「このコースを走る」
と示すと、一生懸命コースを説明してくれた。言葉はよく分からないが、最高の景色らしい。なんとなくコースの状態も理解できた。急なカーブ、急な下り、石橋がある、まあ行ってみるずら。手を振って出発した。お兄ちゃんは、「元気な日本人のじいさんだ」と思っているに違いない。
 右に城壁を見ながら樹林の中を西に進む。道が細くなり、やがて明るい斜面のブドウ畑に入った。ワイン用のブドウは背丈が低い。手前に下りの道が見えたが、ここは判断のしどころ、どうするか迷っていると、後ろから一人のおばあさんがやってきた。おばあちゃん、石橋はどこ?
 「うしろのあの坂道を下りまっしょ」
 ありがとう、ニッコリ笑って少し戻り、急な坂を下る。両手のブレーキに足ブレーキをかけて、下って行ったら石橋があった。そこから展開する風景はなんともはや、美の極致、心の深呼吸をして、すいすいサイクリングだ。もう足ブレーキは気にならない。自由自在だ。川沿いに進む。小川は樹木におおわれ小鳥が鳴く。数軒の瀟洒な農家が現れ、窓辺に花が咲く。また進んでいくと牧草地には色とりどりの無数の花が咲く。クロウタドリも鳴いている。木のベンチがあった。川をのぞくとマスらしき魚影が見える。石橋がかかっている。また農家が現れ、水車が回っている。直径2メートルほどの水車は粉ひきに今も使っているのだろうか、苔が生えているが回転している。
 馬のいる牧場、牛のいる牧場、羊のいる牧場、アルパカのいる牧場もあった。コースの標識は小さな札だけだ。お花畑の花はいろいろ変化する。小川の水を浄化しているのか、水の処理場があった。この小川にも下水が流入しているのだろう。数軒の集落のなかに緑したたる美しい村の墓地があった。新緑の木に囲まれ、墓石の間にも木や花がある。こんもり新しい土盛りがあり、その上に花束が置かれている。最近亡くなられた人の墓だろう。今も土葬が行なわれている。
 どんどん一本道を行った。道が分岐するとそこの標識に従った。けれどとうとう標識が見られなくなった。どこかで道を間違えたか。もうこの辺りから、方向転換しようと地図を見ていると、農家から自転車に乗って出てきたおじさんが、声をかけてきた。おじさんは、この道を行くといいといろいろ話してくれるが、よく分からない。「私に付いてきなさい」と言ったけど、大丈夫ですよ、わたしは土地勘がありますから、ミツバチマーヤですよ、と呟きながら、出発していったおじさんの後からゆっくり行った。おじさんは、たちまち森の道のはるか向こうを走って消えていった。
 12時半ごろ、サイクリングを終えて自転車屋へ戻ってきた。兄ちゃんに、「グーッド」というと、ニッコリ笑い、自転車の鍵はそこの台に置いといてと言って、作業を続けていた。
 

  農業政策とエネルギー政策



 旅の宿は、小さな質素なホテルだった。朝食で特においしいと思ったのは、パン、ヨーグルト、チーズ、ハム。堅い歯ごたえのあるパンをちぎりながら食べる幸せ、幾種類もあるチーズとハムも食欲をそそった。ヨーグルトと温かいコーヒーのおかわりができることは、なんとも言えない満ち足りた喜びだった。
 この国は牧畜の国でもある。世界4大農産物輸出国のひとつで、農業・食品産業は国における第5位の輸出産業に成長している。有機農業の生産物では輸出企業が10万種以上の製品を世界に供給している。自然農法による農産物を提唱したのはルドルフ・シュタイナーで、シュタイナーはまた教育において大きな影響を世界にもたらしてきた。遅まきながら日本でもシュタイナー学校がいくつかできている。
 ドイツでは農業が有力な産業になっていて、農業生産・加工分野で働く人の数は、産業の9番目になる。農村地帯には国民の40%が住み、農業が就業の場を創りだし、農業従事者は質的に高い生活ができている。有機農業については、その割合を近年中に20%に向上させることを目標にしている。このような農村の価値は、文化、環境、農村の風景にも現れている。農村風景が自然と調和して美しいということのベースに、農業者の暮らしの豊かさがあるということなのだ 一方、次のような状況もある。
 「バーデン・ヴェルデン州における伝統的な農村風景。それは色とりどりの花が咲き、多様な生き物が集まる草地に、在来種のリンゴの古木が点在する風景である。リンゴの古木には野鳥が巣をかけ、その下では農家が草を刈り、牛が放牧される。リンゴは在来種が300種以上もあり、人びとはリンゴジュース、モスト(リンゴワイン)、シュナップス(リンゴ焼酎)をつくり、楽しむ。しかし、専用果樹園で大量生産されるジュースの方が安いからと、在来種リンゴの木は放棄され、かつてどこの農家にもいた牛もいなくなり、草を刈ることもなくなった。農家の戸数も三分の二に減った。同州の動物の三分の一が絶滅の危機にあるように、このような景観が失われることは、多くの草花や生きものの棲み家が奪われることなのである。」(農文協「地域の再生」)
 そこで草地を守るドイツの農業政策が重要課題として取り上げられてきているという。比べて考えれば、日本では草地の状況や植生はさらに悲惨な段階に来ていると思う。質的に劣る安価な物の大量生産が環境を劣化させ、破壊する。ドイツでも日本でも、このことに対抗する価値観を人びとが共有する必要があるのだ。
 列車に乗って窓から見ていると、放牧場の一角に、太陽光発電のパネルがずらりと並んでいる光景を何度か見た。家の屋根にパネルを敷いている家も見た。この風景は日本でもなじみになっている。途中で、あれっと思った光景がある。何十枚かパネルがずらりと斜めに設置されている。その下に羊たちが草を食んでいるではないか。小さな太陽光発電所であって、同時に羊の牧場である。なるほど、このアイデアは三つの得がある。
 一つ、電力が得られる、二つ、羊が育つ、三つ、草刈りがいらず、草地が守られる。
  
 田園地帯のなかに、風車が回っているのに気づく。風力発電所だ。数基の風車がゆっくり回っている。小規模な風力発電所だ。一基だけ回っていたり、四基、五基が回っているところもあった。ドイツは、福島第一原発事故後、脱原発政策を早めることにした。メルケル首相は倫理委員会を発足させ、出来るだけ早く完全に原発を全部停止すべきだという結論をだした。それをもとに、政府は2020年までに完全に原発を停止する新しい法律をつくった。
 「脱原発」政策によって、再生可能エネルギーも順調にのびている。政府はエネルギー企業を支援し、小さなエネルギー企業が町や村にもできて、新エネルギーの普及を進めているのだ。


     子どもの休暇、大人の休暇

 夏休み、冬休みは、子どもにとってもっとも楽しいときだ。60年前のぼくの子ども時代は野性的文化時代と言えるような日々で、家の手伝いとともに、友だちと思う存分遊びを創造し、冒険、探検をする日々だった。
 夏休みは降りそそぐセミの声とともにやってくる。7月20日、一学期終了、翌日から8月31日まで、まるまる42日間、6週間の休みだ。
 家の前の大池にはヒシが繁茂していた。ぼくは小学3年生、水泳がまだできないのに、バケツを水に浮かせ、それを両手で持って浮きにし、バタ足で池の真ん中に浮かぶヒシの実を採った。ボウボウと鳴く大きなウシガエルは食用ガエルと呼ばれ、それを兄とぼくは何十匹も釣って売りに行った。ウサギ、アヒル、鶏も飼い、家計の足しにした。
 草野球の道具は全部手作りした。古布と綿でグローブとミット、棒杭でバットを作った。木も草も、ムギワラも、瓦のかけらや小石も、五寸釘も、遊び道具になった。ツバキの実は笛に、スギの実は杉玉鉄砲に、竹は弓矢になった。土の中に巣を作るクモをつかまえて闘わせた。金剛連山から流れてくる清流はカッパ天国。めくるめく陶酔の自由な日々。
 しかし今の時代、事情は大きく変わった。日本の子どもたちの夏休みから、友だちとの自由な野外遊びの謳歌は消えた。
 ドイツの学校の長期休暇は州によって異なり、また年によって期間は異なるが、全州共通して日本よりも期間ははるかに長い。そして宿題はまったくなし。
 年間の休暇は、夏休み、冬休み、クリスマス休暇、復活祭・春休み、昇天祭・聖霊降臨祭、秋休みなどがある。たとえばベルリンの学校の2013〜2014年の場合、
夏休みは、7月9日〜8月22日の45日間、
冬休みは、2月3日〜2月8日の6日間、
クリスマス休暇は、12月23日〜1月3日の12日間、
復活祭・春休みは、4月14日〜4月26日の13日間、
昇天祭・聖霊降臨祭は、5月2日〜5月30日の29日間、
秋休みは10月20日〜11月1日の12日間。
合計117日という長さだ。
 子どもたちの夏休みは学業のプレッシャーから解放される貴重な時間でもある。親もバカンスをとって、長期の家族旅行に出かける。1週間から2週間、保養地へ出かけてそこで滞在し、自然のなかで過ごす。  南ドイツの山岳地帯はヨーロッパアルプスの一部だ。峠を越えていけば、オーストリアからイタリアまで行ける。
 ドイツ南部のバイエルン州バイエルン・シュヴァーベン地方で一日遊んだ。アルプスの峰には雪が残っていた。
 その眺めは日本アルプスの白馬岳あたりの風景に近く感じた。山の上に建てられた白鳥城に行った。この城の美しさから、日本でも世界でも人気がある。観光客の多さから人数を区切って入城させるので待っていると、二人の日本人に出会った。二人は同じ会社の同僚で、一人は以前にもドイツに来たことがあり、今回若い同僚が行きたいと言うから一緒に来たとのことだった。
「二日の休暇をとってきたんですよ。二日しか会社が休みを認めなかったんです」
「えっ、たったの二日でどうやって?」
 要するに、木曜日、金曜日と二日休暇を取り、土日を合わせて四日の休み、飛行機の中で寝てこの国に来た。
「どうして会社は休暇を認めないんですかねえ。私の息子も毎日帰宅するのが午前様ですよ」
 ぼくがそう言うと、彼らは慨嘆する。
「私たちも同じですよ。日本の企業はまったくひどいものです」

 経済協力開発機構OECD)の統計では、日本では1人当たりの1年間の平均労働時間が1745時間(2012年当時)。ドイツは1393時間と約20%も短く、日本人より年間で352時間も短い。
   
 OECDによると、ドイツの1時間当たりの労働生産性は日本よりも高い。その理由の1つに労働時間が日本よりも短いことが挙げられる。ドイツでは、政府が法律によって労働時間を厳しく規制し、違反がないかどうか監視しているという。企業で働く社員の労働時間は、労働時間法によって規制されている。法律によると、平日1日当たりの労働時間は8時間を超えてはならない。1日当たりの労働時間は、最長10時間まで延長することができるが、その場合にも6カ月間の1日当たりの平均労働時間は8時間を超えてはならない。日本でも労働基準法によって、1週間の労働時間の上限は40時間、1日8時間と決まっている。けれどもそれはほとんどザルになっている。ドイツでは、企業が組織的に毎日10時間以上の労働を社員に強いていたり、週末に働かせていたりすると、経営者は最高1万5000ユーロ(210万円)の罰金を科されるのだという。悪質なケースでは、経営者が最高1年間の禁固刑を科される。
 ぼくらが、二人と話していると、もう一人の日本人旅行者が加わった。会社を定年退職した後、自由な一人旅をしているという。
「いやあ、家内は孫のお世話ですよ。そのほうがいいというわけでね。私はもう4週間旅しています。1月ごろから、ネットでホテルや列車パス、航空機など調べて予約を取り、いちばん安い方法で旅しているんですよ。食事も朝自分で作って昼に食べてね。」
 彼の行動は実に身軽。どこかへ出かけて情報を仕入れてくると、ひょこっと目の前に現れる。会社務めから解放されて、彼は青年のように自由を楽しんでいた。
 ところで、日曜日にスーパーへ行ったら店が閉まっていた。話に聞いてはいたものの、ぼくは「閉店法」という法律のことを知らなかったのだ。
 「閉店法」は1900年にドイツ帝国で施行された。小売店の営業は平日の5時から21時までとする。戦後は1957年に、旧西ドイツで「閉店法」が施行された。原則として、平日は7時から18時30分まで、土曜日は7時から14時までの営業を認める。日曜は例外を除き営業が許可されない。1989年法改定、木曜日の営業が20時30分まで可能となり、1996年には営業時間が平日は20時まで、土曜は16時までとなった。2003年の改正では、土曜日も20時まで営業が可能となった。
 なぜ「閉店法」が生まれたのか。
 一つは、日曜日はキリスト教安息日であり、その慣習を保護するため。二つ目は労働者に長時間労働を強いる可能性があるからである。2003年に改正された「閉店法」の条文にも、「労働者の特別な保護」という章を設けられ、労働者の長時間労働を防ぐ条項を設定している。三つ目は、小規模小売店を保護するためである。営業時間が法定されていないと、資本力のある大規模小売店が営業時間を延長することで、小規模小売店の客を奪い、小規模小売店が生き残れなくなる可能性がある。
 かくしてドイツではこの法律が生きてきた。だが、実際には、「閉店法」は数々の例外規定を設けている。薬局、ガソリンスタンド、空港や駅、観光地の店舗などに特例を認めている。
 日曜日、駅の店で食事をした。ドイツの鉄道には改札がない。店の目の前にホームがあり、乗客が列車に乗り降りしているのを見ながら、ぼくらはビールのジョッキを傾けた。


    学校の教育と自然


フランクフルトの住宅街を歩いていると、大きな樹が葉を茂らせているところがあり、幼稚園だった。したたる緑のなか、遊具がある。子どもの大好きな、冒険心をくすぐるアスレチック風の遊具で、ほとんど木で作られている。よじのぼる、渡る、くぐり抜ける、ぶらさがる、子どもたちが全身で遊ぶもの。
 別の日に小学校に行きあった。正門を入ると緑のトンネルの向こうに校舎があり、手前にやはり木製のアスレチック風の遊具が見える。
   
 ぼくの小学時代、竹のぼり、雲(うん)梯(てい)、ジャングルジム、ブランコ、鉄棒が、運動場にあった。竹のぼりは、二十本ほどの真直ぐな竹棒が、はずれないように固定されて、ずらりと並んで垂直に立てられていた。子どもたちは両足で竹をはさみ、両手で体を支え、よじのぼる。いちばん上までよじのぼると目的達成、するすると下りてくる。これは腕や足の筋力を養うのに役立った。ほとんど鉄製の遊具の中で、竹だけが自然素材だった。子どもたちが直接手に触れ、肌に温かみを感じ、心に感じるものは、やはり自然素材がいい。しかし安全面やメンテナンス面で、今なお遊具は鉄製が大部分を占めている。戦後日本にフィールドアスレチックが入ってきたとき、それは子どもを引き付け、木材をふんだんに使った大規模なフィールドアスレチック場ができた。爆発的な人気のゆえに、学校行事の遠足でそこへ生徒たちを連れて行って、たっぷり自由に遊ばせたこともあった。
 幼稚園、保育園、学校の校庭には、できるかぎり木製の遊具やベンチなどを置きたいものだし、学校林をつくりたい。
 幼稚園は、ドイツの幼児教育者、フリードリヒ・フレーベルが世界で最初に設立した。彼は幼稚園の教育内容は、遊びや作業を中心にすべきものと考え、そのために遊具を考案し、花壇や菜園や果樹園からなる庭を幼稚園に必ず設置すべきであると主張した。1837年、世界初の幼稚園として「一般ドイツ幼稚園」が開設される。
 「森の幼稚園」はデンマークで誕生した。1950年代にデンマークで一人のお母さんが森の中で保育をしたのが始まりとされている。「森の幼稚園」はドイツにも広がり、現在ドイツ全土で300以上になる。日本では2005年から毎年「森のようちえん全国フォーラム」が開催され、「森のようちえん全国ネットワーク」が設立されているが数は少ない。
 ドイツでは自然体験を重視する。連邦環境省は、自然でのハイキングを学校プログラムに取り入れるプロジェクトを新しく始めた。「学校ハイキング」と呼ばれるもので、生徒たちは一週間のうちの一日を野外で過ごす。このプロジェクトは2014年から、小学校3校において三年間の計画で実験的に行なわれている。生物多様性への関心を高めることが目的で、自然を子どもたちが五感を使って体感し、環境を守ることの大切さを学ぶ。環境教育の先進国ドイツならではの試みだ。
 ミュンヘン日本人国際学校の教諭を体験してきた栃木県の小学校教諭、橋本和美さんは、ドイツの環境教育についてこんな小論文を書いている。

《概要》
(1)環境に配慮した学校づくり
 ドイツでは自然を大切にした学校づくりが行われている。天然木を利用した校舎,森の中の学校など,自然と調和した学校が数多く見られる。
 ドイツにおける環境教育の概念は「ビオトープ」である。現地の小学校では、泥遊び場や生け垣を使った迷路、畑などを校庭に作っている。子どもたちは切り株に座り、土を掘り返し、落ち葉に寝転がる。大木が生い茂り、鳥のさえずりが絶えない空間がある。自然を肌で学び感じている。
 建物の屋根に植物を植えている。緑化された屋根は,雨水を保持し、周辺の気候を改善し、小動物の大切な庭や休息の場となっている。また、断熱性を補ったり、屋根の気密性を守ったり、利点も多い。ミュンヘン日本人国際学校体育館の屋根部分にも土が盛ってあり、草が植えてある。春になれば花が咲き、蝶や小鳥たちがたくさんやってくる。
 (2)自然体験
 ドイツの森林にはさまざまな形の自然体験道がある。ドイツでは一年を通して散歩やハイキングを楽しむ人たちを見かけるが、「森の音に耳を澄ます」「植物に触れて匂いを確かめる」「自然の中にある物を使って音楽を楽しむ」「木登りをする」など、思い思いに自然に触れ、楽しんでいる。
 (3)環境教育の実践
 ドイツ各地には「森の学校」と呼ばれる地域の自然保護や環境教育を行うエコセンターがある。そこでは自然観察の魅力的なイベントが随時開かれ、五感を使った自然体感を行い、豊かな感性を育てている。博物館や動物園などでも環境学習プログラムを随時行っている。子ども自身が体験を通じ、考えながら環境を守ることの大切さを学ぶ。小学校に入ると、環境教育プロジェクトに参加し、五感から得た知識をさらに深め、一人一人が環境大使となって、環境保全活動に携わるようになる。
 ミュンヘンギムナジウム学校では、自然界のプロセスや生態系における相互依存についての学習が、「教科の枠を越えた授業」の時間に設定して数ヶ月単位で行なわれている。複数の教科の共通テーマとして環境を扱い、様々な視点から知識を深める。例えば「エネルギー」をテーマに、化学と政治の授業を組合せて実施。化学の授業では,様々なエネルギー源について自然科学を元に調べ、政治の授業では脱原発とエネルギー転換についてディスカッションを行う。
  一方,短期間で学年・学校を挙げて一つのテーマに取り組む「プロジェクト」もあり、実践的な環境学習プロジェクトを実施するため、自然学校(機関)や環境学習センターに講師を依頼し、アドバイスをしてもらっている。
 <まとめ>
 「ドイツ人の環境意識は大変高い。ドイツの人々は健康で人間らしく生きるために環境を守り,動植物の世界を乱獲から守り、破壊や損失を除去するために行動している。ミュンヘン市内の公園などでは子どもたちが里親になった樹木や小川なども見られる。木には小鳥の巣箱がかけられ、近くにはえさ台が置かれている。自分たちの手で自然を大切に育てることで、自然と環境に対する責任感を身につけている。」

 ドイツの小学校教育は伝統的に地域を重視する。1919年から「郷土科」という教科が設定されている。こんな調査がある。
 「1998年に連邦自然保護庁が作成したドイツ国内の生物に関するレッド・リストによれば、調査した16,000の動物種のうち3%が絶滅し、36%が絶滅危惧種であった。また、在来のシダ・種子植物3,000種のうち1.6%が絶滅し、26.8%が絶滅危惧種であった 。」
 「ビオトープ」はドイツで生まれた概念で、生物の生息環境を意味する生物学の用語だ。「ビオ」は「バイオ」のことであり、ドイツ連邦自然保護局では「ビオトープ」を、「有機的に結びついた生物群の生息空間」と位置づけている。日本でもこの概念が導入され、学校や地域で、生命が生まれ循環する環境づくりが目指された。しかし日本の現実は、教科書オンリーで、教師が教え生徒が受け身の授業がほとんどになっている。学校から出て、社会や自然、生活体験から学び発見し、創造する実践とは遠く隔たってしまっている。子どもたちが野外に出て自然を観察し、自然と対話するような授業や「ビオトープ」をつくって活用する教育実践はほとんど空洞化している。
 最も重要な『生命を知り、生命から学び、感じ、考える教育』に手が回らず、子どもたちと野山・森に入ってたっぷりと遊び、自然を体験する実践が少なくなっている日本の教育、どんな人間が育つか、未来はどうなるか、この危機感の共有がまったく乏しい。


    ストリートミュージシャン


 
 何人かの辻音楽師に出会った。
 今の呼び名はストリートミュージシャン
 街かどに立って曲を演奏する。
 フランクフルトの街で、老いたバイオリン弾きに出会った。
 四角い小さなスピーカーを路上に置いて、
 スピーカーから流れるオーケストラの音色に合わせ、
 彼はバイオリンを弾いていた。
 朝は街中にいたが、午後は川の橋のたもとにいた。
 彼の前を人は通り過ぎていき、
 前に置かれた箱には、何枚かのコインが入っていた。
 街の広場に行くと、男がホルンを吹き、
 女がアコーデオンを弾いていた。
 陽気な女は演奏しながら踊りを踊った。
 十人ほどの旅の人たちが、二人の前に立って、
 ニコニコ演奏を聞いていた。中からご婦人の一人が出てきて、曲に合わせて踊りを始めた。
 アコーディオン弾きは、もっと陽気に踊りながら演奏した。
 旅の人たちは愉快そうに笑い、
 一人二人と出ていって、帽子にコインを投げ入れた。
  
 ローテンブルグの西の公園にはマロニエの花が咲いていた。
 ギターの音色が聞こえてきたから行ってみると、「ドイツ民謡」と書かれた札が置かれ、民族衣装の男が木の前に立ってギターを弾いていた。男の前の箱にCDのケースが数枚ある。
 「菩提樹の曲、あるよ。ローレライ、あるよ。」
 と言いながらギターを弾く。なんとも素朴な演奏だった。おじさんの演奏を録音したCDは一枚12ユーロ、ドイツ民謡は好きだから旅の記念に一枚買った。
 ミュンヘンの街でもミュージシャンに出会った。にぎやかな歩行者天国を行くと、チロル民謡が聞こえてきた。歩道に箱を置き、その上でチロルの民族衣装を着けた男がアコーデオンを弾いて歌っている。人びとは聞くともなく、男の横を通りすぎていく。一人のご婦人がつつっと近づくと、男に向かい合い、ご婦人もチロルの歌を歌いだした。二人はしばらく二人だけの演奏会をした。婦人もチロルの人だったのかもしれない。ミュンヘンから山を越えればチロルだ。
 歩道の端に座って、リコーダーを吹いている男がいた。その向こうにも、リコーダーを吹く男がいた。日本の小学生も吹くリコーダー。いかにも困窮者風の男たちは、うつむき加減に笛を吹く。道行く人は男に関心を示す様子がなく、前に置かれた小さな紙の器に、いくらもお金が入っていなかった。
 森の道で、椅子に腰かけ、小さな手回しオルガンを弾く人がいた。木で作られた珍しい楽器に興味を抱いて話しかける人がいた。ぼくも腰をおろして、その楽器をよく観察して曲を聴きたかったが、そのままそこを通り過ぎた。
 1990年8月、ノルウェーオスロの通りで出会ったギター弾きは、ビートルズの「イマジン」を熱唱していた。二十代の青年で、若い情熱が伝わってくる。ジョン・レノンが歌ったこと
は単なる夢想にすぎないと思われたが、実現できないと決めつめていることは、人びとの心の中にある壁のせいだと思えた。その前年の1989年11月9日にベルリンの壁は崩壊していた。ノルウェーの若者は、ただただ歌い続けていた。

    想像してごらん、
    国なんかないんだと。簡単なことだよ。
    殺す理由も死ぬ理由も無く、宗教も無い。
    みんなが平和に生きていると。
    想像してごらん、
    天国なんかないんだと。簡単なことだよ。
    この地下に地獄なんて無く、
    僕たちの上には ただ空があるだけ。
    想像してごらん 、
    みんながただ、今を生きているって。」 

 メイン通りだったが、立ち止まる人はいなかった。ぼくは歌を聴きながら、ゆっくり前を通り過ぎた。

   
   動物園へ行った


 朝からトラムに乗って家内と動物園へ出かけた。どこの停留場で降りたらいいか、乗り場にいた市民に聞いて路面電車に乗った。駅には駅名が書いてある。駅名を見て、近くにいた若者に確かめると、動物園ならここで降りて、向こうの通りを右へ10分ぐらいと言った。電車はその間、停車したまま待ってくれていた。若者が、発車しないように措置をしてくれていたらしい。
 朝のフランクフルト動物園は静かだった。人も少ない。入ってすぐに左手がインドライオンのテリトリーだ。インドにライオンがいたとは知らなかった。濠に囲まれたかなり広い台地のインド風の自然に、二頭のインドライオンは寄り添って、遠くを見ながら伏せていた。たてがみの色が濃く、風格があった。
 背丈ほどの草がぼうぼうと生えているところは、オオカミの暮らす草原だった。飼育員のおばさんが中に入って何かしている。オオカミはそれを知っていて、おばさんを見ながら距離を取り、おばさんが動くと後をつけていた。おばさんは、ときどき後ろを振りかえりながら出口から出ていった。オオカミも風格があった。オオカミは群れの動物だが、いったい何頭ここにいるのだろう。ライオンの園もオオカミの園も、木立が取り囲んでおり、人間は木立の合間から中をのぞくという感じだ。
 柵やネットのない自由な鳥スペースで、ヒナを連れて歩いている鳥がいる。フラミンゴが群れている。野生のフラミンゴの群れの数にはとても及ばないが。
 爬虫類館と水族館を合わせた「エキゾタリウム」ではガラス越しに珍しい動物を見る。小動物がおもしろい。自分の住む穴の中から小石を口にくわえて一生懸命外に運び出している魚が、クリクリ目玉でかわいい。ハキリアリもせっせと木の葉を切り取って運んでいた。地下室に入っていくと、暗がりの中に夜行性動物を観察できるところもあった。ネズミの仲間が木登りをしている。
 午前10時に、近くの教会の鐘が鳴った。鐘の音はとても大きく感じられ、10分以上も鳴り響く。鐘の音に動物たちは驚かないかと思ったが、彼らはそれには慣れて、この街の住民同様にへっちゃらのようだ。
 動物園の動物は、できるかぎりふるさとの環境に近くなるように棲み家を用意されている。しかしそれでも彼らの願うところではない。ここに4500の動物が生きる。その生命空間をつくることは、人間自身のあるべき環境をつくることにも通じる。動物たちの住む自然環境、すなわち土、空気、水、食べもの、音、植生、それらは彼らにとって適切なものか、吟味されながら用意されている。しかし、チェルノブイリ原発事故が起きたとき、放射性物質はヨーロッパ全土を汚染した。この動物園にも放射性ストロンチウムは落下しただろう。さらにまた人間が開発した化学物質、オゾン層の破壊、地球温暖化による気候変動、戦争による環境破壊など、彼らはとめどもなく続く生命・生態系への攻撃にさらされている。
 一方、野生動物たちのふるさとを見れば、人間によって破壊され、野生動物の安全な居住区は激減した。多くの生物が絶滅を危惧されている。彼らの安住の地はいずこにありや。
 動物園の動物を考えるということは、地球環境、生物環境、人間環境を考えることに通じる。
 アムジークロウタドリ)が樹の枝にとまってさえずっている。12時にまた教会の鐘が鳴り渡った。動物園の入口には長蛇の列ができていた。子どもを連れた家族連れが多い。鋭敏な感性を持ち、好奇心の塊である子どもたちが、ここで楽しみ、発見するものは数限りない。


 「沈黙の春」を著し、地球・人類の危機を世界に訴え警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソンが遺した文章がある。特に子どもの育ちにかかわる、親、教師への重要なメッセージである。

 「子どもたちの世界は新鮮で美しく、驚異と感激にあふれている。子どもたちが、生来の驚異の感覚を生き生きと保ち続けるためには、その感覚をわかちあえるような大人が少なくとも一人、子どものかたわらにいて、われわれの住んでいる世界の歓喜、感激、神秘などをその子どもと一緒に再発見する必要がある。
 私は、子どもにとっても、子どもを教育しようと努力する親にとっても、『知る』ことは、『感じる』ことの半分の重要性さえももっていないと信じている。もしも、もろもろの事実が、将来、知識や知恵を生みだす種子であるとするならば、情緒や感覚は、この種子を育む肥沃な土壌である。幼年期は、この土壌をたくわえるときである。美的な感覚、新しい未知なるものへの感激、思いやり、あわれみ、感嘆、愛情といった感情、このような情念がひとたび喚起されれば、その対象となるものについて知識を求めるようになるはずである。それは永続的な意義を持っている。消化する能力がまだ備わっていない子どもに、もろもろの事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるようになるための道を切り開いてやることの方がはるかに大切である。」(ポール・ブルックスレイチェル・カーソン」上遠恵子訳) 
 

    日本の景観を想う


 中山道木曽路馬篭から峠を越えて妻籠まで歩いて旅籠に泊った外国人旅行者たちが、その美を「こここそが歴史的日本の美であり、日本一だ」とほめ讃えていた。
 妻籠は、1976年に国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地に選ばれた。経済成長こそが最高の価値であるかのように、伝統的な町並みをつぶして新しい街をつくっていく巨大な開発の波の中、いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組んだ妻籠宿の住民の叡智は高く評価されている。
 初めて妻籠を訪れたのは、1970年の冬だった。南木曽駅からぶらりと妻と妻籠宿に入り、「藤乙」という屋号の旅籠に泊った。他に客のいない冬の夜、老いた女将は、宿近くに墓地のある島崎藤村の詩「初恋」に詠われたおゆうさまの思い出や、小説「夜明け前」の話をしてくれた。翌日、峠を歩いて越え馬篭宿で泊った。宿は、藤村の四男、楠雄さんの経営する「四方(よも)木屋(きや)」だった。
 子どもが生まれてからも、毎年家族で妻籠を訪れた。常宿となった民宿「大高取」は、あららぎ川のほとりにある歴史的な古民家で、それからそこは30年に及ぶ郷(さと)になった。一家は、牛を飼っていた。御主人は妻籠宿を伝統的建造物群、歴史的遺産として保存する運動の担い手でもあった。復元活動は、街道筋の電柱を撤去し、看板類や自動販売機を全部とり払い、江戸時代からの建物と街並みを復元して、すっきり調和した屋並みが心をいやす、江戸時代を彷彿させる景観に戻した。宿場妻籠は、山間の谷間にあり、わずかな農地しかなかった。国道から離れ、宿場を維持して未来を描くにも困難な状況だったが、復活した宿場は人を呼んだ。時代祭や木曽の盆踊りが行われ、秋の時代祭の日には、村人たちは江戸時代の人びとに仮装し、嫁入り行列が行なわれた。子どもたちと馬篭峠を越えてススキの原を行くと、江戸時代の旅人とすれ違い、旅愁はすっかり江戸時代、大高取のばば様は、囲炉裏で五平餅を焼いてくれた。
 妻籠に続いて薮原宿、奈良井宿と、次々と木曽路中山道宿場の伝統的建造物群が復元されるようになった。観光客が木曽路にやってきた。しかし、江戸時代の木曽路はほとんど昔の姿を消していた。木曽の国道19号線は車の往来が激しく、人の歩ける道ではない。
 高度経済成長とともに、日本の歴史的街道は姿を消していた。写真家の石川文洋氏が木曽路を歩いて痛感した。「歩く道がない」。それは、実際にぼくも体験したことであった。薮原と奈良井の間だったか、ひとりの外国人の若者が、ザックを背にしてテクテク歩いていた。車が疾駆する国道19号線。歩道はない。排気ガスを吸いながら、身の危険を感じて歩いている彼に、「こっちの脇道を歩きましょう」、と声をかけたかったが、こっちの脇道も次の宿場に通じているのかどうかも分からない。結局声をかけられずじまいだった。 
         
 「歩く人のための街道」を全国に復元できないか。もしそれができれば、日本の文化の大きな変革につながるだろう。
 美濃路から宿場を、馬篭妻籠、須原、上松、福島、宮ノ越、薮原、奈良井、贄川、本山、洗馬とつなぎ、中山道を「江戸」へ向かって復元する。もう一方、松本平、安曇野、大町、白馬、小谷、糸魚川へと、「塩の道」をつないで長大な歩く人のための街道を取り戻す。四国のお遍路道熊野古道は、人びとが今も歩いている。日本全国に「人間の歩く街道を取りもどす」計画がなぜ生まれてこないのか。自動車道はあまねく通し、鉄道は全国に新幹線を張り巡らし、なおもリニア新幹線へとスピードを追求する。しかし、ゆっくり自然を愛でて歩く人の道はつくられない。日本人は歩く文化を喪失したのだろうか。
 イタリアのガイド、マルコは、古い道を探して保全する活動を続けていた。彼はこんな印象深いことを語っていた。

 「道は動脈であり静脈です。徒歩でしか通れないたくさんの美しい道を、歩いて使わなければ、イタリアという体は死んでしまいます。失われた道を使い続けてほしい。イタリアをいちばん楽しむ方法は、歩くことです。イタリアには数えきれないほど美しい場所があります。車で、あっという間に通り過ぎてしまえば、おいしい食事を味わわないで済ませてしまうのと同じです。」

 昔からドイツ人は、イタリアにあこがれた。ドイツからオーストリアのアルプスの峠を越えれば、そこには、陽光輝く、明るく美しいイタリアがあると、イタリアを恋い焦がれた。モーツァルトゲーテもそうだった。
 現代日本はいまだ自然と暮らしの調和した環境を、文化として取り戻していない。日本の自然は深遠で美しい。しかし、暮らしの中に自然が豊かに生きているような都市計画は進められてはこなかった。日本では街並みが「醜い」といわれる。人工物と自然が調和していない。
 ドイツの景観は、面として保護されている。全国に多種多様な街道を配し、街、樹木、森・草地を保護・復元し、たくさんの種類の生物が住める環境を生みだそうとしている。
 ドイツでは法的にはどう規定しているのだろうか。ドイツ連邦自然保護法とドイツの環境政策の三原則は次のとおりである。  

  ドイツ連邦自然保護法
 第1章・第1条。
 自然と景観は、その固有の価値に基づいて、人の生活基盤として、また将来の世代に対する責任において、人の住んでいない地域と同様に人の住んでいる地域においても、自然と景観の多様さ、特色、美しさと観光的価値が長く保証されるように、保護され、保存され、開発され、必要のある場合は復元されなければならない。
 第1章・第4条。
 各人は自然保護及び景観保存の目的と原則を実現するために自らの可能性に基づいて寄与しなければならず、自然と景観が不可避的な状況によって損われる以上には損なわれないように行動しなければならない。
   
  ドイツの環境政策の三原則
 1、予防原則環境負荷は基本的に減少させなければならない。国は、自然に対するリスクを認識した場合は介入する義務を負う。国の指示と禁令は環境負荷を最小限に制限するものでなければならない。
 2、自己責任原則:産業は自己のもたらす環境負荷の費用を負担しなければならない。産業はできるだけエコロジー的に、またそれによって長期に渡って低コストで生産することを推進しなければならない。
 3、協力原則:国は、法律と罰則によってではなく自発的な基盤に基づいて産業と協力し合わなければならない。

 ドイツ連邦建設法典は、建築物と周辺との調和を規定した。ビオトープの概念は、1986年の自然保護法において、初めて使用されている。
 ドイツ連邦自然保護法の2009年改正法では、さらに生物多様性が重視され、種及びビオトープの保護に関する規定が拡充された。景観計画では、自然・景観保護の目的を具体化し、それを実現する手段としての景観計画の策定を決めている。
    
 かくしてドイツでは、「Land」 をより美しくするという考えをもって全的に実践されている。川があれば、川が美の要素になる。村があれば、村のたたずまいが美の要素となる。教会の塔があれば、塔は景観を引き立てる。道はなつかしい心の風景をかきたてる。
 学校で歴史を教えるときに必要なことは、子どもたちが想像の翼を広げることである。子どもたちは想像する。日本の江戸時代の景観はどんなだったろうと。桜の咲くころ、新緑の季節、紅葉の錦が輝くとき、木枯らし吹き、雪の降りしきる冬、街道をゆく人たちの見た風景を想像する。そしてまた西行等が旅した平安時代はどうだったろうと。歴史のなかで、美は人の心に根ざして、人間を育んだ。日本の芸術文化はその風土の中から生まれた。
    

    人びとの中の「古層」


 ドイツを指すジャーマン(GERMAN)をドイツ語で発音するとゲルマン。
 原始ゲルマン人は土地共有性を実施し、自給自足的村落を形成した。霊魂崇拝、自然崇拝が行なわれ、彼らの神は森の中に住んでいた。森の民は霊魂崇拝、自然崇拝、これは日本に似ている。古代日本はアニミズムで、山にも森にも川にも木々にも神がいた。
 原始ゲルマン人の現住地はスカンジナビアからバルト海沿岸の地だった。やがてゲルマン人はいろんな民族との相克・融合、支配・被支配を繰り返してきて現代至り、EUの一員となった。
 ヨーロッパ歴史学樺山紘一は、「歴史の古層」「歴史的な基層」という言葉を使って、現代の人間のなかに潜んでいる古い歴史の「記憶」の存在について述べている。

 「人間の中の記憶というものは100年、200年の長期波動で築かれていったもので、これが人間社会をつくりあげる決定的な力を果たしたに違いない。こうしてでき上がってきた記憶体系というものが、どうやって共有されて、どうやってそれ以後に導入されたものとの間に関係を取り結ぶのか、こういうことを考えるのが、本来の歴史学だと思う。」

 記録に残っていない先史の時代の人びとの生活、社会を結んだ人びとの知られざる歴史があり、そこには自然と人間、異民族同士の交流、融合があって、そこから生み出されてきた記憶がある。それが「歴史の古層」「歴史的な基層」であり、今も隠れて存在している。ところが、19世紀になって、ナショナリズムが政治と結びつくと、民族の純粋性とかいうファンタジーがつくられ、「歴史の古層」「歴史的な基層」がないがしろにされ、「純粋なゲルマン民族」というような誤解体系がつくりあげられてしまった。そして「純粋なドイツ人」とか「純粋な日本人」とか唱導されて、ドイツではユダヤ人への迫害になった。歴史を考えれば、「純粋」なんていうものは考えられない。

 「200年前まで、ヨーロッパはかなりの部分、森林だった。人間の中に深い森があった。魔女とか妖精とかが棲んでいた。今でもヨーロッパの人の心には妖精が棲んでいる。イギリス人は特にそうで、窓の桟とか、鴨居とかに必ず妖精がいるから、窓はまたいではいけないと子どもに教える。」
     
 生命誌研究家の中村桂子氏は、
「純粋なドイツ人とか純粋な日本人とかは存在しないということは、ゲノムの研究からも言える。ゲノムには記憶には残っていないものも、そのことが記録されている」
と述べている。

 日本人はヨーロッパをどれほど認識してきただろうか。日本がヨーロッパを知らないのは、日本がヨーロッパ文化を取り入れたのが明治維新後だったからである。だから「ヨーロッパの古層」が入ってこなかった。
 日本人はアニミズムだと言うけれど、ヨーロッパ人もきわめて長い間、アニミスティックな世界に生きている。
 ドイツでもオーストリアでも、お店に行くと、妖精の人形が売られている。家内は、魔法使いのおばあさんの人形をインスブルッグで買って日本に持って帰ってきた。部屋の壁にかかって、いつもぼくらを見ている。

 
    歴史性をもった美しい風土


 かつてイギリスのワーズワース(1770〜1850)のふるさとを旅した時、その美しい風土のなかで、こんな言葉を聞いた。
 「この美は100年以上も前から人びとによってつくられてきた。この景色は、100年後も変わらず、人びとによって守り継がれていくだろう。」
 美しい郷土の永遠性への誓い、誇りと愛が現れている。
 イギリスは18世紀末から始まった産業革命によって環境は惨憺たる破壊に至る。森が滅んだ。エディンバラの古都さえ煤煙によって黒くなった。そこから人びとは立ちあがる。国木田独歩の小説「武蔵野」に影響を与えたワーズワースもその一人だった。「ピーターラビットのお話」を書いたビアトリクス・ポッター(1866〜1943)も、美しい湖水地方を取り戻す運動に参加した。そして「一人の百万ポンドよりも百万人の一ポンド」を合言葉に、たくさんの人々が自然遺産、歴史遺産を自分たち国民の宝であると、ナショナルトラスト運動に参加する。やがて自然と歴史、文化を保存するこの運動は世界に広がり、「世界遺産」の取り組みにつながっていった。
 イギリスは、パブリック・フットパスの思想も稔らせた。人間は歩く権利を持っている、この大地を、自由に安全に心ゆくまで自然のなかに浸りながら歩く。それは誰もが持っている権利であると、国土の至る所に毛細血管のように、車の通らない、人間が歩くためだけの小道をめぐらし、既にある小道をつなぎながら、私有地も歩けるようにした。パブリック・フットパスには、小さな標識があるだけ、それを見て、連綿と続く小道を歩く。
 10年前、パブリックフットパスを歩いた。小道を行くと、野ウサギが道を横切って走っていた。民家の庭を抜けると牧草地、羊が草を食んでいた。そこを過ぎると現れたのは湖だった。
 ドイツは、イギリスの影響を強く受けた。第二次世界大戦後のドイツ市民は、爆撃で破壊された街の残骸を拾い集め、200年前、300年前の歴史的建造物を復元し、広大な緑の森を全土に蘇らせ、美しい街を復興させた。それがドイツの風土の美となった。二つの大戦を経たドイツ市民たちの、自然の中に還りたいと思う意志の結果だった。、その思いには永遠性を感じる。

 小塩節が「ザルツブルグの小径」に書いていたエッセイに「フィッシャー・ディースカウの歌う『冬の旅』」がある。

 「フィッシャー・ディースカウのなまの声を聴いたのは、1962年、おそろしく寒いドイツの冬の日が初めてだった。
 何年か前から私は彼の『冬の旅』のレコードをすり減るぐらい聴いていた。冬のさなか、中部ドイツのカッセルの町で彼の『冬の旅』の夕べがあるという。90キロの道をボロ車で出かけていった。菩提樹の並木がどこまでも続くくねくね道は、つるつるに凍っている。裸の菩提樹の木肌に粉雪が吹きつけられていて、まるで年老いた山の狩人のような表情だ。朝十時ごろに昇った冬の太陽は、地平線のすぐ上の灰色の層雲のかげに終日じっとかくれていて、三時ごろにはもう沈んでしまう。雪の丘を黒いカラスが飛び去っていく。」
   
 シューベルト歌曲集「冬の旅」。作曲した1827年の翌年、シューベルト亡くなる。「冬の旅」最後の第二十四歌に「辻音楽師」という歌が入っている。
 村はずれで一人の年老いた辻音楽師と出会う。虚ろな眼で、凍える指で、手回しオルガン(ライアー)を弾いている。若者は自分と同じ孤独な辻音楽師にたずねる。
 「老人よ、お前についていこうか。僕の歌に合わせてライアーを回してくれないか?」
    凍った地面に 靴もはかず
    足もともよろよろと おぼつかない
    それなのに銭受けの小皿は
    いつになっても からのままだ。
  
 ドイツ人のメランコリーについてこんな文章がある。

 「ドイツの冬はきびしくて長い。このような気候風土が精神面に大きな影響を与える。冬に耐え、陽光の降り注ぐ春を待ちわびる。逃れることのできない冬の季節が生み出す薄暗い日の出や日没のたそがれの雰囲気を、むしろ安らぎに似たものと受け止めてきた。薄明はドイツ人の好きな言葉であり、彼らはその中で、もの思いにふけり、音楽に耳を傾ける。このような気候風土とかかわる性向は、ドイツにメランコリーの色調を帯びた芸術作品が多く生まれたことと無関係ではないだろう。」
                    (藤井あゆみ)


 長い厳しい冬を経て、春の陽光に輝く自然の美と豊かさを讃える。自然風土の影響は大きい。合わせて時代と社会の変動が人間の精神に大きな影響を与える。戦乱の時代をいくつも経験して、今EUのなかでドイツは大きな位置を占めている。同時に、国内に新たな葛藤と対立をはらんでいる。
 ナチスドイツによるユダヤ人絶滅施設、強制収容所から生きて帰ってきたフランクルは、その収容所体験記録「夜と霧」のなかに、死に瀕した一人の若い女性と一本の木のことを書いている。フランクルユダヤ精神科医であり、収容所のなかで、人びとを生き抜くように支えた。

 彼女は収容所の窓から外を見て横たわっていた。窓の外にカスタニエン(マロニエの一種)の樹があり、花盛りだった。彼女はフランクルに言った。
 「あの樹は私のただ一つの友だちですの。この樹とよく話をしますの。あの樹はこう申しましたの。私はここにいる。私はここにいる。私はいるのだ。永遠のいのちだ‥‥」
 死に瀕したその女性は、窓の外に樹があったおかげで、樹の命に支えられ、絶望の淵に沈むことなく人生を終えることができた。

  ヘッセは書いていた。

 「国家主義の錯覚を徹底的に清算して、人間となる道を歩むためには、勝利者や中立国民より、国家主義の悪夢を仮借なく知らされたドイツ人のほうが、有利な立場に置かれている。それによって、他国民より人間価値においてまさり、道(タオ)により近づくように希望する。」

 道(タオ)は中国、老子の思想である。ヘッセはノーベル賞を受け、次のように謝辞を述べた。

 「精神の二つの病気が二度の世界大戦を引き起こしました。すなわち、技術の誇大妄想と、ナショナリズムの誇大妄想です。
 それに対する抵抗が、最も重要な課題であります。」