髪長く、あごひげに白いものの混じる男は、
草原の小屋のかたわらに置いた椅子に座っていた。
男の前には火が燃え、やかんがかかっている。
彼の視線の先には、川が流れていた。
男は歌い始めた。
朗々と張りのある声は、草の上を流れていった。
歌は、ロシア民謡「カチューシャ」だった。
プロローグの映像は、どこか大陸的な、なつかしさを感じさせるものだった。
カメラが動いた。
猫が映った。
犬が出てきた。
実はそこは多摩川の河川敷だった。
小屋は、ブルーシートを張ったテント小屋。
河川敷にはホームレスが何人も住みついていた。
そのなかに犬や猫を飼う人たちがいた。
犬も猫も河川敷に捨てられ、おじさんたちに拾われたものだった。
この犬はねえ、捨てられた子猫を拾ってきて、自分の乳で子猫を育てたんだよ。
おじさんは、猫と犬と一緒に暮らしていた。
犬はおじさんになつき、おじさんのそばで腹をだして甘えている。
犬も猫も、人なつこかった。
三匹も四匹も、猫を家族にしている人がいた。
捨てる人たちは、そこに捨てれば、ホームレスの人が養ってくれると思っているようだった。
持てる者が猫を捨て、天涯孤独の、持たざる男たちが猫を救う。
ホームレスの人たちと住む猫を撮る写真家がいた。
写真家とホームレスの間に親しい付き合いが生まれていた。
ハーモニカを吹く男がいた。
夕焼けこやけを吹いていた。
空き缶を集めて売り、少しの金を稼ぐ人がいた。
稼いだ三千円あまりの金の半分は、猫のえさ代になった。
元旦、一人の男は、裸になって多摩川で沐浴をした。
新年のみそぎだった。
飼い主がいなくなり、ブルーシートの小屋に取り残された猫たちがいた。
その猫を世話しているのは、
写真家の奥さんだった。
残された「レンマ」という名の猫が死んでいた。
「百戦錬磨」からとった「レンマ」の名だというその猫は、
河川敷の猫たちを守ってきたボスであった。
写真家の奥さんは自転車でやってきて、死骸を見つけた。
「ごめんね、ごめんね」
奥さんは遺骸をさすりつづけて泣いた。
「カチューシャ」を歌っていた男の視力は衰えていたが、
医者に診てもらう金はなかった。
空き缶集めの男の収入は、空き缶の安値がひびいて、ますます少なくなった。
猫たちの餌も乏しくなった。
男は、猫たちにあやまりながら、餌をやる。
あまりに優しすぎる人たちだった。
優しすぎるから、ホームレスにならざるを得なかった。
優しい人たちのところに、孤独な猫たちが集まっていた。
「自己責任」という言葉を吐く社会によって、彼等は河川敷にはじきだされた。
はじき出された孤独な者たちは、増水すれば命も奪われる河川敷に集う。
何も持たず、何ものにも縛られず、乏しさに生きる彼らこそが、
「人間の村」をつくることのできる人たちのように思えた。
映像は、人間の孤独と究極の優しさを描き出していた。
NHKのETV特集、ぼくはテレビの前に座り込んで動けなかった。
夜の11時に、1時間半のドキュメントは終わった。
その映像と感動は、今も心に残っている。