山を愛する人に贈る <中西梧堂の山旅の記録・昭和17年>


 「ケルン」廃刊して3年後、太平洋戦争が起こった。中国に加えて東南アジア、南太平洋が戦場となった。男たちは次々と戦地へ向かった。
 そのころ、北アルプスはどんな状況だったか。1942年(昭和17)と43年の山の様子を中西悟堂が書いている。そのとき、中西悟堂は47歳。野鳥研究家で、1934年(昭和9)38歳の時に、「日本野鳥の会」を創設している。
 中西悟堂が山で出会った光景は、思いがけない世界だった。戦雲をはるか離れた山の世界、紀行文を読んでぼくは不思議な思いがした。
 その紀行文の一部を紹介しよう。
 昭和17年後立山連峰縦走記録は、次の文章で始まる。
 <白馬から始めるところだが、白馬はいかにも人が多い。そこで白馬から杓子、白馬鑓、不帰ノ嶮、唐松岳の一日行程は省略して、人通りの少ないらしい八方尾根から唐松にとりつき、ここから針の木まで、もっとも人の少ない信越国境の主稜を縦走、針の木蓮華に立ち寄って五色ガ原へぬけるコースを取ることにした。>
 7月22日新宿から夜行列車で出発。列車は混んでいて通路でひざをかかえてうずくまり、松本までついに眠れず。大町までの電車も混み、つり革にぶらさがったまま大町に到着、そこで案内人を依頼し、バスで細野まで入った。
 <バスもまた立ちん棒どころか、乗降口の片足立ちだ。人間ソーセージみたいなひどい目にあって、たどりつくのもまた楽ではない。上高地などにしても、もう修羅の巷だ。>
 細野から中西たちは八方尾根を登る。
 <十六貫俵の米俵を背負い子につけた人夫と、炭俵二俵をつけた人夫とが、はい松のかげに足を投げて休んでいるのは、これから唐松の小屋へ運ぶのだろう。あの俵は十六貫あると聞いて、よくも負って登るものだと感心しながらあいさつを交わす。‥‥大きなケルンがあった。高さ一丈ほどのコンクリートづくりのもので次のような由来が彫ってあった。‥‥息 昭和12年12月26日 長男 猛風雪の為 遭難永眠す。‥‥>
 1貫は3.75キロ、16貫は60キロ。中西悟堂は登りながら目にする植物の名前をも逐一記録している。八方池に来ると、三人の青年が現れ、そのうちの一人が裸になって池で泳ぎだした。それに刺激されて悟堂も泳ぎたくなったが自制。この後悟堂は猛烈な下痢に悩まされる。それでもがんばってなんとか無事唐松小屋にたどりつくことができた。
 小屋で粥を作ってもらい、粥と梅干を食べて次第に悟堂は元気を取り戻し、翌日縦走にうつった。その記録は景色、山稜の様子、出会う小鳥、高山植物、人など実に詳細をきわめる。
 五竜岳鹿島槍ヶ岳の間の八峰キレット小屋の記録は興味深い。八峰キレットは両側が切れ落ちた難所だ。
 <小屋には若い小屋番が一人いて、あまりうれしそうに迎え入れるので、わけをきくと、このごろ人も来ず、眺望もよくない。あたり一面岩ばかり、毎日直下四百メートルの岩を下って水を汲まねばならぬ労働があるので、ここへ来て十五日だが、もう少々憂鬱になっていたと言う。石油缶一杯の水を汲み上げるのが半日仕事で、近くに雪渓はあるのだが、雪というものは大きい塊を取ってきても火にかけてわかすと何分の一かに減ってしまう。それでやむなく岩の登降をやるのだが、途中ひとところ板のような岩があるので、ロープが来るのを待っているのだという。食料は唐松小屋から運ばれるのだが、十六貫俵を背負う人夫もこの岩場はそうはいかない。少しずつちょいちょい運ぶのだという。三俣蓮華の小屋とともに、北アルプス中、もっとも不便な小屋ということだが、それでも場所は存外安定していて、建てて十五年になるというが格別いたんでもいない。小屋番は茶をわかしてくれる。水が貴い場所だから、いらぬと遠慮すると、着いた口しめしぐらいはあるよと言って、やかんにいっぱいわかして出す。そこへのっそりと入ってきたのは、昨日十六貫俵を背負いあげた人夫たちだった。米、みそ、わかめ、それに小屋番が話していたロープもとどいた。やあやあ、これがあれば助かるぞと、小屋番はロープを喜ぶ。
 ヤッホーという声がする。14,5歳のわらしだ。やはりこの小屋で暮らしているのだそうだ。ヤッホーも子どもがやるとひどくかわいい。>
 そこへ二組のパーティが到着した。小屋番の言うには、宿泊客は一週間に平均一人だとのこと。悟堂は八峰キレットからの夕陽を背にした剣岳、朝日に輝く剣岳の絶景をつづる。
 鹿島槍ヶ岳で、悟堂は不思議な青年に出会った。単独でやってきた男は、唐松小屋から3時間半で来たという。悟堂たちが十時間半かかった山稜をたったの3時間半、さらに聞くと、昨日、白馬を朝の七時に出て唐松小屋に着いたのが午前十一時だったとのこと、悟堂たちは彼を天狗だと舌を巻く。男は悟堂たちと別れるとまた飛ぶように去って行った。冷ノ小屋に着いて、小屋の主にその天狗男の話をすると、白馬からここまで一日という超特急でやってきた測量師がいたと言う。すごい健脚がいたものだ。今だったらロングトレイルで記録を作るだろう。
 一行はそれから稜線を針の木まで行き、針の木小屋で泊った。するとそこへ蓮華岳から降りてきた女学生40名ほどがやってきた。小屋は100名ほどの宿泊客でたいへんなにぎわいになった。先生に引率された東京の女学生たちは翌日、針の木岳に登ると大町へ下っていった。悟堂一行はそこから黒部川に下り、川辺の平の小屋に泊る。そして小屋の主に風呂をわかしてもらい汗を流し、釣ってきたイワナをごちそうになる。そして次の日五色ガ原に登って山旅は最終を迎えている。

 この山行は、1942年(昭和17)の夏である。まだ庶民はこのような山を愛する平和な旅ができていたのだ。だが、このような平和も戦局の急転によって失われていった。
 その年の戦況は、
 1月、マニラ占領。
 2月、シンガポール占領。
 3月、ラングーン(現、ヤンゴン)占領。
 6月、ミッドウェー海戦、日本は主力の四空母を失う。
 7月、大本営は南太平洋侵攻作戦中止を決定。
 そして日本の転落が始まる。