我が身、
我が家、
我が家族、
我が故郷、
我が母校、
我が国、
我が地球。
「我が」が広がる。
この「我が」には、「私のもの」という所有の意味はありません。
なんだろう、
故郷が木曽・馬篭だった島崎藤村は、馬篭を「血につながるふるさと」と言いました。
「我が家、我が家族、我が故郷」、
それは、わたしの命を守り、わたしを育てた、
父と母、親族や友だち、
わたしの心と体につながるところ、
わたしの「ゆりかご」。
「我が身」は「わたしの体」だ、自分の体は「わたしのもの」だ、
そう思っているけれども、
「ほんとうにそうですか」と考えます。
「わたし」が「わたしの体を所有する」?
そりゃ変です。
命の素、
細胞、DNAは、先祖からつながってきました。
空気、水、太陽、食べ物の動物・植物、それらがわたしの体をつくってくれます。
「我が」は、「わたしのもの」ではない。
それは「わたしを育ててくれている」「わたしを育てた」の意味。
「我が母校」という意識がないとすれば、
その意識を欠落させているのは何?
「我が」は、「わたしのもの」ではない。
それは「わたしを育ててくれている」「わたしを育てた」の意味。
その真意が胸に刻まれていないから、
今日も、
「我が街」に、ポイ、ポイとゴミを放って行く人がいます。
今仕事をしている岐阜の羽島に、レンコン畑や田んぼがある。
レンコンを掘っている農家の人が、畑からたくさんのゴミを拾い出していました。
道路から、掘り投げて行ったゴミです。
困ったもんです。
農家の人は嘆いています。
仕事場からホテルが三つ見えます。
真っ赤な壁の7階建て、
緑の外壁の6階建て、
茶色の13階建て。
赤と緑のホテルは、ラブホテルです。
「おれのホテルだ、何色にしようが勝手だ」、と主張し、
自己をきわだたせようとしています。
森が破壊され、
川がコンクリートで固められ、
水を汚染し、
調和のない街が広がり、
日本のいたるところで、
「わたしのもの」という所有観と、
「わたしとは関係がない」という疎外意識とが、
野放図に、
「我が故郷」「我が祖国」「我が地球」を破壊しています。
世界のいたるところで、
「我が」が自己勝手を主張しています。
「はらから」という言葉があります。
「同胞」も同じです。
同じ母親から生まれた兄弟姉妹のように、わたしたちは同じ祖国に生まれた仲間。
「我が民族」、「我がはらから」。
民族が同じ、祖国が同じ、だから仲間。
その同胞意識は、
あるとき、
自分たちとは別の民族や国と、対立が起きると、
とたんに相手は敵になる。
「地球家族」という意識は、たちまちふっとぶ。
「我が住む地域」は「我が庭」です。
「我が地球」は「我が体」です。
わたしは目を上げ、
目を遠くまで飛ばします。
わたしのいるところから広がる「我が」の意識、
「我が街」、
「我が地域」、
「我が道路」、
「我が県」、
「我が国」、
「我が世界」、
「我が地球」、
地平線のかなたも、水平線のかなたも、
我が故郷です。