教育の二つの大きな流れ

michimasa19372009-02-20



4月、入学してきた中学一年の担任クラスに
ころんとかわいい、ひときわ目立った行動をするK子がいた。
彼女は、心に思ったことはすぐに口に出す子だった。
授業中でも、いきなり大声で発言する。
秩序を破られた教師はびっくりして、
「静かにしなさい」と発言を抑えようとするが、
発言を抑えられても彼女は、さらに声を大きくして叫ぶように発言する。
あるとき、自分の発言を制された彼女は、自分の椅子の上に立ち上がって、演説した。
ぼくは、秩序を打ち破る傍若無人と思える行動に腹をたて、K子を厳しく叱った。
K子の行動はとらえようがなく、ぼくは困惑する。
K子は、自分の意見を口に出さないで自分のうちにしまっておくことができない。
その率直さと、ときに状況をわきまえない行動に、教師たちはただただあきれるが、
K子は反抗しようとしてそうするのではなく、
形は反抗に見えても、それは納得できないという意思表示であり、
納得すればエネルギッシュに行動する、むしろクラスの機関車のような役割をする子でもあった。
とにかく陽気で、快活で、型破りだった。
男の子、女の子の区別なく話しかける。
勉強は苦手だったが、体育の授業が終わって帰ってくると上気したお顔一杯に汗をかいている。
美術の時間も一生懸命絵を描いている。


あるとき教室の窓から、一匹のクマバチがブーンと羽音を立てて飛び込んできて、
生徒たちの頭の上を旋回した。
ワー、キャー、
子どもたちは頭をすくめる。
お祭り騒ぎの好きなK子の反応は飛びぬけていた。
立ち上がり、席を離れて逃げ出し、
大声で叫びまわり、大騒ぎだ。
彼女の動きが、騒ぎを扇動する。


もう少し落ち着いて、冷静にできないだろうか、
家ではどんなだろう。
何度か家庭訪問をした。
お母さんは、教師の話に困惑する。
家ではそんなことはない。
静かな、聞き分けのよい子だった。
学校という集団の中に入ると、そうなるらしい。


小学校の元の担任のY先生に聞いてみた。
Y先生は、子どもの心理をよく理解して、教え方の研究もしておられる先生だった。
「K子ですか、いい子でしょう。すばらしい子です。」
彼女の言動に振り回されて困ったという感じがない。
これは、こちらの受け止め方に問題があるのかもしれない。
「やっかいな子」「指導の難しい子」という感じ方が自分の中にある、
その見方を変えなければならないかもしれない。
そう気づいたきっかけが、小学校の担任の話だった。
子どもの現象面に惑わされて、子どもの本質をとらえていないのではなかろうか。
受容するこちらの心の問題でもあった。


秩序を維持し、規律を守り、協調していくことを重視する教育指導と、
子どもの持っている可能性や創造性、個性を引き出し伸ばしていこうとする教育指導と、
この二面の間で指導が揺れ動き、かたよったりする。
そのぶれには、教師の見方、感じ方、考え方が影響している。
本の学校現場において、教師たちのバックボーンになる考え方、教育理論は存在しているだろうか。


シュタイナー教育研究の高橋巌が、かつて「シュタイナー教育を語る」(角川書店 1989)で分かりやすく説明していた。
二つの考え方がある。


●「人間の子どもも、生まれたときは他の猿や犬や猫と同じような動物にすぎない。
だから外から枠をはめて、その枠内で子どもの人格を作り上げなければならない。」
 この考え方の代表が、ソビエトマルクス主義教育、アメリカのデューイ、ドイツのヘルバルトである。
 「子どもというのはほうっておいたら、いくらでも悪くなる、どうしようもない存在なのだから、枠をはめ、厳しくしつけ、場合によっては体罰を加えて、許されないことをしたらひどいめにあう、と何度も何度も繰り返して心に叩き込んでおくと、はじめて社会人として、まともな社会生活が送れるようになる」という考え方。


●「人間は大きな運命の導きに従って、一人ひとり違った課題を背負ってこの世に生まれ、そして善なる意志の力でその課題に応えようとしているので、それぞれの子どもの中にすでに潜在的に存在しているそのような可能性をできるだけ傷つけないで、大事に育てていくことが教育だ。」
 この考え方の代表が、スイスのペスタロッチ、ドイツのフレーベル、イタリアのモンテッソリ、ドイツのシュタイナーである。
 ルソーはペスタロッチに思想的影響を与えた後者。
 「子どもの中に、すでに美しい花を開かせる力が内在している。親や教育者は、その子の中に内在する種子をどこまで美しく実らせるか」という考え方。


前者は、「人間というものは、地上の物質的な世界の生存条件に適応することで生を全うし、土に帰る。生存競争を前提とする唯物論的な進化論の考え方」
後者は、「人間というのは生まれたときから死ぬまでの間だけ生きているような、はかない存在ではない。一人ひとりの個性はもっと深い存在根拠を持っている、という考え方。」
と、高橋は分類する。


本の学校の生活指導のなかに根強く存在するのは、前者の考え方に近い。


20年前のそのころ、ぼくのなかで研究テーマになっていたのいくつかの選択肢のなかに、「シュタイナー教育」と、イギリスのサマーヒル学園の「ニイルの教育」があった。
当時、大阪市立大学でニイル研究会を立ち上げていた堀真一郎さんの研究室へ内地留学を希望し、堀教授に打診すると受け入れてくれることになった。
しかし、大阪市教育委員会は内地留学を認めなかった。
なぜ認めなかったか、そこに大阪の教育行政の根深い問題を見た。
失望感は深かった。
堀さんは、その後「きのくに子どもの村学園」を設立した。
ぼくは三つ目の選択肢を選ぶことにしたのだった。


ところで、K子。
彼女は、次第に持ち前の元気さは失わずに、協調した行動をとるようになった。
それはリーダー性の芽生えとなっていった。
3年になって合唱コンクールにむけてクラスを一つにまとめていった力量は目を見張るものがあり、
卒業という別れを意識した、彼女の思いの深さの現われだった。
20年後の再会しよう、それが彼女の呼びかけだった。
その日が近い。
今は、いいお母さんになっていることだろう。