内村鑑三・井口喜源治・清沢冽



穂高に、真の教育を目指す「研成義塾」をつくり、井口喜源治が教えた期間は、
1898年(明治31)から1932年(昭和7年)までだった。
無教会派のキリスト者内村鑑三は、井口喜源治を、「穂高のペスタロッチ」と呼んだ。
フランス革命後、スイスの片田舎で孤児や貧民の子などの教育に従事したペスタロッチ(1746年〜1827年)。
第二次世界大戦のとき、ポーランドワルシャワゲットーの中で、ユダヤ人の孤児たちと運命をともにした孤児院院長コルチャックは熱烈なペスタロッチ信奉者でもあった。



内村鑑三は手記に井口喜源治と研成義塾のことを次のように記している。


「もしもこれを、慶応義塾とか早稲田とかいうような私塾に比べてみたらば、
実に見る影もないものである。
その建物といえば、2間(3.6m)に4間(7.2m)の板屋ぶきの教場ひとつと、8畳2間の部屋があるばかりである。
‥‥
信州のごとき山国にも、依頼派と独立派の2派がある。
依頼派とは、政府万能力を信じる派であって、何事によらず議会、県会、群会、または村会の補助を仰がんと欲するものである。
人はひとり立って天の神と己の腕に頼りて大事をなし得べしとの確信は、
今や悲しいかな信州の山中においてみることのできないものとなった。
しかしながら信州人いまだことごとく人間の軟体動物とはならない。
‥‥
群費にも村費にも頼らない私塾を立てんとの大胆なる聖望は、井口喜源治なる学校教師の心に起こった。
機械的ならずして精神的、自由的なる教育を施さんと欲するのが、この若き郷先生の目的である。
‥‥
彼は、また単独ではない。彼を助くるに彼と同じ志を持ちたる百姓がある、町人がある。
‥‥
余は小にして大なるこの義塾を信州の地において発見して、心ひそかに信州万歳を絶叫せざるをえなかった。」


井口喜源治をなぜ「穂高のペスタロッチ」と呼んだのか。
研成義塾創立百周年の記念講演を行った恵泉女学園の川田殖氏は、こう述べている。


 「若いペスタロッチは、経済的には、農場をやっても損をしています。
ペスタロッチは、農業をやってみて、貧しい農民を本当に豊かにするためには、農作業や技術や流通機構だけでなく、人間の中味を豊かにすることが大切だと思い知らされたのです。
農業改革の前に人間改革が必要だと考えたのです。
人間の内からの変革がなければ、社会的変革は失敗する。
人間の内に『友なきものの友となる』という心が生まれなければ、競争するか、怠けるかになる。
給料を上げてもらえれば競争するし、どうせ給料が同じだったら怠ける。
こういう中では人は育たない。そういうことをペスタロッチはみたわけです。
人間の生き方の内なる改革がなければ、社会的改革は絶対に成功しないと考えたのです。
 ‥‥
 ペスタロッチは、戦争によって孤児になったこどもたち50〜60人、
頭にシラミがいたり、皮膚病で体がボロボロになった子どもたちを抱きかかえるようにして育てています。
ペスタロッチは、子どもたちと生活を共にしながら、その一人ひとりの心の成長をしっかり見つめて、
その中から、この子どもが本当に育つためには何が大切か、
この子どもが成長していくために、どこに心を向けていくべきかを考えた。
それが彼の教育論の出発点だったのです。
教科書に書いてあることを暗誦させて、うまくいくかいかないかということではなくて、
一人ひとりの子どもをかけがえのない子どもとする親の心を、先生の心としたのです。
ペスタロッチはそれを『親心』といいました。
それをずっと引きのばしていくと、神様の心に到達すると言った。
『神の親心』と言いました。
これに対する『人の子心』、人はその親、特に母親のふところに安らぎながら自分の運命をゆだねていく。
そういう安らぎが、人間の活動や生活の土台にならなくてはならない。
今の教育に本当の安らぎがありますか。
今の経済的、文化的生活の中に本当の安らぎがありますか。
私は今ほど子どもに安らぎが少なくなっている時代はないのではないかと思います。
そういう意味で、人間というものに対するこの愛惜ということを、ペスタロッチとともに井口先生の中にみるのです。」
(「安曇野 人間教育の源流」井口喜源治記念館刊)


研成義塾の卒業生のひとりに、清沢冽(1887〜1945)という人がいる。
アメリカに渡り、苦学して大学で政治経済を学んだ。
後に日本外交史の研究を行ない、外交評論家として知られた。
清沢は、太平洋戦争中、ひそかに日記を書き、そこに戦争批判をきびしく書いている。
「暗黒日記」と名づけられた、三冊の日記帳と二冊の大学ノートには、時流に乗って戦争を謳歌し、
国を誤らせた数百人の政治家、評論家が糾弾されている。
「暗黒日記」の一節。


昭和18年1月14日
 昨日、東京市の招待あり。座に文部省の『臣民の道』を書いたという男がいた。
八紘一宇のなんのと低級なることおびただし。国民精神研究所の所員だ。
今の日本はかかる連中の天下である。
  ‥‥
 2月5日
 東条首相は議会で、『自分は日本人の誠忠を信ずるがゆえに、戒厳令をしかなかった』といった。
議会は追従主義でさかんに『強権発動』をいっている。強権発動をしてみたら、結果がよくなるか。
実物教育のために、やってみたらいいではないか。ここまでくれば、なにをやっても同じだ。
しかし、彼らはどんな場合にも、経験を教訓とする連中ではない。
  ‥‥
 2月25日
 正木ひろしという弁護士の『近きより』という小雑誌がある。
その1月号、2月号は驚くべき反軍的、皮肉的なものである。戦争中にこれだけのものが出せるのは驚くべし。
これを書いた彼の勇気驚くべし。彼は徹底的デモクラットで、文章も非常にうまい。
  ‥‥
 3月4日
 各方面で英米を憤ることを教えている。
秋田県の横手町では、チャーチルルーズベルトのわら人形をつくり、
女子供に竹槍で突かせていると、今朝の毎日新聞は報じている。
封建時代の敵討ち思想だ。
そうした思想しかない人が、国民を指導しているのである。」
                       (「人生の本 心の記録」文芸春秋



清沢よりも15年後に、同じ信州に生まれた森下二郎は、清沢の「暗黒日記」と並ぶ「戦時下日誌」を記していた。
森下二郎は、26歳のときに洗礼を受け、内村鑑三に私淑した。
「戦時下日誌」は、松本高等女学校校長時代から終戦に至るまでの心の記録である。
その中からいくつかの記録を拾う。


 「昭和12年12月19日
 予は昨年四月以来、‥‥一日として精神の壮快を覚えたることなし。悲しむべし。
 しかしながら予は、いかにしてもこの苦難を克服せざるべからず。
 このままにして人生の最後にいたるがごときは予のいかにしても堪えざるところなり。
 夜のラジオでわが海軍が広東を空襲したことを報じた。
 ‥‥
 内村鑑三先生にして存生しておられたならば今の戦争についてどういわれるであろうか。
いかなる態度をとられるだろうか。
 先生は日露戦争のとき、世界大戦のとき、絶対非戦を主張し、絶対非戦の態度をとられた。
 今度の戦争においては非戦を唱える人などはただの一人もいない。
神の愛の信仰からしてさえ戦争賛美をしている人ばかりである。


 6月26日
 勤労奉仕のため生徒とともに市外寿村へいって終日働いて帰った。
昨日来の雨ですっかり洗われた野も山も空もじつに美しく澄みわたっていおり、畑は心から湿っていて爽快であった。
仕事は主として畑の除草であった。生徒も心持よく働いた。‥‥
 田舎のこの生活がほんとの生活だ。この生活のみがほんとの生活だ。
 この土地に着いた先祖以来住みなれた自然の中に、土の上に、家の中に、しっかりと住んでいるこの生活のみがほんとの生活だ。
 かえりに寿村から一里半、松本市にはいろうとして、近代都会生活の不安、動揺、焦燥がただちに感ぜられる。
しかして、これはほんとの生活ではない。これは人間死滅の途である。
 ‥‥
 (今度の戦争が、東洋平和のためであるとか、八紘一宇を実現するためとか、したがって聖戦であるとかについて)自分も今までいくどかこれをいわなければならないときができて、このことを口に唱えてきた。
 しかし、自分にはこのことの明らかな自覚信念があっていっているのではない。
いやそればかりでなく、これらのことはみんな疑わしく、みんな信ぜられない。
東洋平和のために東洋の平和を破りつつある。
 破った結果において平和が、永遠の平和がくるのだという。そんなことは信ぜられない。
むしろ東洋永遠の禍乱の種を蒔きつつあるという方が当たっているように思われる。‥‥
 いわゆる八紘一宇のご理想なるものははたして今の政治家、軍人および時勢に順応するに敏なる学者の唱えるようなものだろうか。
もし彼らのいうがごとき世界征服の野望のごときものがわが建国の理想であるとするならば、予はかくのごとき理想を持ちえざるものである。
したがって予はこの戦争が聖戦であるとは信ずることができないのである。」
(「人生の本 心の記録」文芸春秋