熊井明子さんの講演を聴く

              イギリスの田園と安曇野

夜明け 


安曇野市の区長会主催の講演会に行った。
居住区ごとに住民自治会があり、その代表区長の集まりが区長会。
区長は区の住民によって選挙で選ばれる。
安曇野市には80いくつかの区があるらしい。
市民ひとりひとりへの行政がゆきわたるように市の機関に協力する働きもしている。


講演は、映画監督の故熊井啓さん夫人の熊井明子さんが講師だった。
明子さんはエッセイストであり、ポプリの研究でも知られ、
シェークスピアについての著作もいくつかある。
夫の熊井啓さんは安曇野市豊科の生まれ、明子さんは松本生まれ、
結婚して居住は東京になった。


話は、ふるさとの思い出から、夫の映画制作に協力してきたエピソード、
何度も訪れたイギリスの田園に飛ぶ。
シェークスピアの生地、ストラドフォードアボンエイボンに、湖水地方の美しさ、
自然や遺跡、伝統文化の美をナショナルトラスト運動によって守っていこうとする人々、
家の屋根もくすんだ黒っぽい色にして、風土や伝統との調和をはかろうとする、
それはみんなの主体的な意志で行なわれている。


これまでの100年間、守り伝えてきた、
今後100年たっても、この美しい風土は守られていくだろう、
誇りと自信をもってイギリスの人々は言う。
それほどまでに人々が愛情をもって育て守ってきた風土。


啓さん明子さんの帰郷、
離れればこそ、街に住めばこそ、安曇野はあこがれとなる。
恋こがれてきたもののように、
ふるさとの山、ふるさとの空を眺める。
ふるさとの水を飲み、ふるさとの空気を胸いっぱいに吸い込む。


脳科学者が言ったとおっしゃったかな、
明子さんは、山を見つめることの効用を話した。
山をはるかに眺めやる、
遠くの景色を見つめると脳が刺激され、快感を覚える、
それが頭を活性化する、と。
夫の自分も、子どものころから、山や空を見て育ってきた、と。
今の子どもたちにも、もっと山や空や木々を眺めてほしい。


安曇野の財産は、自然とともに、古くから伝えられてきたもののなかにある。
古民家、神社、お寺。
オープンガーデン、ウォーキングをもっと盛んにできないか。
美しい庭をつくれば、それをだれもが見ることのできるように、オープンにする、
イギリスのように私有地も含めて、のんびり歩いて楽しむ、山、空、川、田畑、古民家、道祖神
歩く人がもっと増えればいいな。
イギリスの田園では当たり前になっていることが、ここではまだまだだ。


夫の啓が、亡くなる前に安曇野を訪れたとき、
「ここは私の魂の帰るところだ。」
と言った。
魂の帰っていくところ、
その言葉は明子さんの胸をうち、それを伝えられた安曇野市民の心をもうった。


話が終わった。
それで終わりか、
いや終わらない。
本番は、終わったときから、はじまる。

いちばん前列でいっしょに聞いていた市長や区長たち、
そして自分も市民も、そこから何を考え、何をするか。


      ☆   ☆   ☆


       忘れていた山
             岸田衿子


   その山の名も
   山のすがたも
   山にふる雪のことも
   わたしは忘れていました


   その山に 雪が降るころになって
   あたらしい まぶしい朝が来るころになって
   わたしは 思い出したのです
   やっぱり山にめぐりあった と
   

   まいばん わたしは
   凍った道や 長靴のかかとや
   通りすぎた あの林の思い出を
   薪にくべ さまざまな炎にして
   みつめてきたけれど
   ながい間 忘れていたのです


   その向こうに 山がたたずんでいたことを
   その山に 雪をふらすことを