現代の労働



 「フランスではこの三十年の間に、
都市から農山村に移住する多くの人たちを生み出してきた。
この動きが、百年近くも続いた農山村の過疎化の歴史を終了させてしまったほどに、である。
その人たちのなかから、自然とともに、地域とともに、豊かな労働、豊かな人間関係とともに生きる道が提案されてきた。
この担い手たちが、今日のフランスの反グローバリズム運動を形成し、
今では大きな社会勢力になってきている。
 フランスの農山村に行くと、かつて学生運動をしていたという人々によく出会う。
そういう人たちと話をしていると、ひとむかし前の社会主義運動と同じぐらいの数の人々が、
新しい思想を模索しながら、資本主義の問題点と対決しつづけていることに気づかされる。
パリでは労働者のストライキもデモも少なくなったけれど、
それがフランスのすべての様子ではない。
自然とともに生きるとは、どういう生き方をすることなのか。
豊かな働き方は、今日の経済システムのもとで実現できるのか。
そういう問いから資本主義批判が展開される時代がはじまっている。」


内山節がこう書いている。
内山節は、東京と群馬県上野村の両方に住み、
上野村では農を営み、夏の終りには秋・冬の野菜の種を播き、
冬には、春にそなえて畑の準備を進める。
東京では大学で教え、この社会、この世界を見つめて研究している。
上野村というところは、信州佐久から十国峠を越えたところにある山村である。
上野村でも、日本のどこの山村でも共通している、仕事歌が歌われなくなったそうである。
以前の社会には、たくさんの仕事歌があった。
四、五十年前までは、田植え歌や麦打ち歌が歌われていた。
どうしてそれらが歌われなくなっていったのか。
労働の単調さや厳しさがあった時代にそれをまぎらわせるために歌われたというのなら、
今の労働にはもっと単調な仕事が多いではないか。
しかし仕事歌は生まれない。
現代人は仕事歌が生まれない仕事をしているからではないか、
個人と共同との関係が、仕事のなかでも変わった。
現代は、みんなと一緒に仕事をして、共同の目的を達成することに喜びを感じるような仕事をしていない。
すべて個人が軸になり、個人が関係を結んで仕事をする。
市場経済のなかで生き抜くための、営利中心の仕事になってしまっている。
「人間の労働はどうあるべきか」という議論が、戦後の日本では活発に行なわれ、
労働運動もあったが、
今はそれもない。
金融資本主義によって引きまわされる企業と労働者、
格差社会の問題はますます深刻になり、
奈落のそこに落ちていくのではないかという危惧さえ起きている。


内山は、こうも指摘する。
日本の若い人の間で、仕事の希望はというと、大工、料理人、菓子職人、パン職人など職人が上位に並ぶという。
代わってサラリーマンが減ってきた。
テレビの影響もあろうが、
仕事と結びついた自分の世界を確立しながら暮らしたいという希望が静かに広がっている。


ここ安曇野でも、農業や芸術、工芸にかかわる仕事を希望して移住してくる人がいる。
しかし、きわめて少数であり、それを受け入れていく態勢は存在しない。
しかし、兆しはある。
若者が農山村に向いだすときがいつ来るだろうか。
あーあ、金をばらまきゃいいという日本の政治よ。