目からうろこを落とす

michimasa19372008-11-27





サウロは、イエスは異教、反逆者であるからと、
エスの弟子たちを脅迫し殺害していた.
多くのイエスの信者をとらえようとしていたサウロは、
ダマスコの近くで天から光を浴びて地に倒れた。
地に伏すサウロの耳に、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかけるイエスの声がひびいた。
サウロが立ち上がると、目が見えない。
彼は三日間、食べることも飲むこともできなくなった。
ダマスコにアナニヤというイエスの弟子がいた。
エスはアナニヤに、サウロの家に行くことを命じる。


「アナニヤは出かけていってその家にはいり、手をサウロの上において言った。
『兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです。』
するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。
そこで彼は立ってパプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。」(使徒行伝第9章)


「目からうろこが落ちる」という表現は、この新約聖書使徒行伝が起源である。
明治時代の聖書のこの言葉が広がっていって、今や一般的に使われるようになった。
目に「うろこ」がついていて、それが落ちて、見えなかったものが見えるようになるという比喩表現である。
あることがきっかけで、真相、実態、本質が分かるようになったというときに、しばしば使われる。
眼という小さな二つの開口部、ビーだまほど、ブドウの粒ほどの大きさ、そこから私たちは世界を見ている。
その開口部に一片の「うろこ」が張り付いていたら、そりゃあ何も見えやしない、
ところが、人間は自分の目に「うろこ」がくっついているのに、自分は正しく見ている、本当の姿をつかんでいると思っていることがどれほど多いことか。
それがはがれて、なるほど、なるほど、そうだったのか、よく分かりました、となって、初めて「うろこ」が付いていたんだと気づく。
その実感、リアリティが、この表現から感じられるからだろう。


ヨルダン領のエルサレムにぼくはいた。
イスラエルとの国境、目の前にゴーストタウンがはるかに広がっている。
石の家々がなだらかな丘をうめている。
すべて人の住んでいない家々だった。
昔はみんなここに人が住んでいたんだなあと、
石塀によじのぼって頭を出し、緩衝地帯のゴーストタウンとその向こうのイスラエル領を眺めていたとき、一人の兵士が近寄ってきて、ぼくは拘束された。
事務所に連れて行かれて取調べを受け、すぐ釈放されたのだが、
イスラエル領を見ることも許されていないことが分かった。
実際に毎日銃弾がイスラエル領からゴーストタウンの上をとんでくるのだという。
第三次中東戦争前、ヨルダンのアンマンに本拠をおくパレスチナ解放機構PLO)がイスラエルに対するゲリラ闘争を始めていた。
が、イラク、イランもアフガンもパキスタンもまだ平和であった。
「うろこ」を付けたブッシュ大統領が登場して、
中東は激しく憎悪のうずまく地帯となった。
国境をはさんで、国境の向こう側は敵。
対決以外に道はないと固く思い込む。
眼は堅い「うろこ」におおわれる。
そのなかでも、眼に「うろこ」を張り付けず和解の道を模索する人もいる。


「目のうろこ」、
厚生労働省事務次官を襲った犯人、
子どものころは、おとなしい素直な子だったとか。
では、大人になってから、どこでどう変わったのか。
犬を愛するところは、やさしい。
その人が、「硬いうろこ」で人を殺す。


あの人はいい人だ、いや、あの人は悪い。
あの人は偉い、いや、あの人は馬鹿だ。
あの人はやさしい、いや、あの人は意地悪だ。
あの人はずるい、いや、あの人は潔癖だ。
「うろこ」を付けた目で、無数の評価をしながら人間は生きている。
「うろこ」を付けた目の評価に取り囲まれて人は生きている。


学校では生徒を、
企業では働く人を、
評価している。
能力がある人、ない人、
成績で評価し、
「うろこ」の目で、人の性格から心まで評価している。
「うろこ」から逃れるのは難しい。


さて、わが目の「うろこ」、やっぱりある。
人に対する評価の「うろこ」を見つめていく。
この「うろこ」には翻弄されないぞ。


眼から「うろこ」を落とす。