日本の歴史 <堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像」<3>

                馬頭観音菩薩の碑



【ひとつの資料として】

 若者は留置場に13日間いたが、釈放になった。
 戦況が厳しくなるにつれ思想弾圧はますます激しくなり、左翼の劇団に解散命令が出て、劇作家の久保栄村山知義、俳優の滝沢修宇野重吉もつかまった。
 バーのなかで、マドンナに、若者はこんな話をした。
稚内の近くのね、木も生えない荒れ野を突っ切っていったとこの山の中にね、小さい炭坑町があるんだ。小さなやまでね、一坑に十五人ほどしか働いていないんだ。あんまり炭の出もよくない。とにかく危ないやまなんだ。そこの斜めな穴のなかへ入っていったんだ。入って百メートルほど下ったところにな、少し広い、階段の踊り場みたいなところがあるんだ。電気は、もちろんついているけど、えらく暗いんだ。眼がなれないと、映画館よりずっと暗い感じなんだ。その踊り場みたいに少し広いところに、黒い、足の生えた、なんだかへんな、おおきなものが、二ついるみたいなんだ‥‥」
 それは何か、よく見ると馬だった。穴の先の、もっと下のほうから石炭を積んだトロッコを馬が引いてくる。二頭が交替交替にツルベ式に動く。その馬は、五年も暗い炭坑の穴の中に入ったきり、日の目を見たことがない。穴の底と、踊り場のようなところを往復するだけで五年が過ぎた。二頭は暗い穴の中で次第に視力が減衰し、半年もたつと眼が見えなくなった。仕事はトロッコを引くだけ、見えるものは真っ黒な石炭と暗い暗い電気だけ、足場は足のほうで自然に覚えてしまい、眼は開いてはいるが視力はない。
「ところが、その馬の眼の優しさといったら、もうほんとうにね、涙でうるんでいるみたいで、もうほんとうにこっちが自殺したくなるほどにね、その眼が‥‥。そしてこの馬、日光にまったくあたらないから、五、六年しか生きない」
 話を聞いていたマドンナは何かを感じて肩を震わせて泣いた。若者は馬の話をしながら何を言いたいのか自分でも分からなくなっていた。
そこへ一人の青年が入ってきた。若者と同じ大学のフランス文学科の学生だった。三人はその店のこれが最後のフランス製ワインというのを取り出して飲み始める。若者はまた話し始めた。
「釧路のひとつ手前にね、大いに楽しい毛、と書いて大楽毛、オタノシゲというへんな名の駅があるんだ。この駅から、バンザイ、バンザイでおくられてきた出征の人が一人乗ってきたんだ。そして、汽車が動き出してひとりになってしまうと、荷物の中から雑誌を取り出して読み始めたんだ。その雑誌がね、『学芸』なんだ」
「学芸って、あの‥‥」
 マドンナがグラスに口をつけたままで言った。『学芸』は『唯物論研究』を改題したもので、すでに発禁になっていた。発禁になって二年になる。召集されて兵役にはいるその青年は、最後の機会だと思って誰かからまわしてもらって『学芸』を読んでいるのだ。それを見て若者の心は強く打たれた。
「きっと読みきったら連絡線の上から海へ投げ捨てるかするのじゃないか、と思うんだ。ぼくはオタノシゲから三つほど先の駅で降りることになっていたから、降りるときに、その人に、どうか御無事で、とそっと言って、その『学芸』をぐっとにらんだんだ。そしたら、その人、びっくりしたような顔してたよ」
 このころ、唯物論研究会は、軍需工場の工員らを含めて、反戦運動の組織化を進めていたのである。
 闇がひたひたと寄せてきて、ひとつひとつ眼をつぶされ、一掃されていく。炭坑の暗い穴の中の、眼に見えない馬も、生きて帰れるか分からない出征の汽車の中で、最後の機会にも「学芸」を読んでいた人も、同じような絶望のなかにいる。
 若者は考える。あの炭坑の馬にとって何が救いなんだろう。人生は絶望的である。人生に絶望というものが確実にある。それを知っておくことはよいことであると思う。あの二頭の盲馬の、あの大きな、うるんだ眼の優しさは、彼らの絶望そのものを裏打ちとし、踏み台としたものだ。そうだとすれば、世にまれな優しさというものを生み出しうるとすれば、絶望ということもわるいことではない。若者は馬に対して、宇野重吉や戦地にいるマドンナの旦那や、牢屋にいる連中に対して、うしろめたさをおぼえながらも、絶望の中の学び、フランス文学に没頭するのだった。