「我々は、命令が下ればそれに従うだけです。」

「我々は、命令が下ればそれに従うだけです。」
2003年12月、自衛隊イラク派兵が決まったとき、そう語る隊員の映像が報道された。
つい最近、航空自衛隊の幕僚長が、「我が国が侵略国家だったというのはぬれぎぬ」などと主張する論文を書き、更迭された。
この二つをつなげると、かつての戦争の構図を見る思いがする。
「我々は、命令が下ればそれに従うだけです。」
軍隊という組織はそういうものだ、
命令には従いたくないと思っていても、それを言えない。
では兵士は単なる機械的なロボットか。
人間が動くときには何らかの大義・目的が必要になる。
かつての大戦で兵士たちは、「お国ために」、「大東亜の解放のために」という大義を信じて出征していった。
戦争に懐疑的な人、批判する人、「NO」を行動に移した人もいたが、
一億の民を統制する権力と、民の熱気が彼らの背中を押した。
兵士たちは、何らかの大義・目的を抱いて、戦場に出て行き、生きるか死ぬかのなかで、戦うマシンとなった。
そして殺し、殺された。


「我々は、命令が下ればそれに従うだけです。」
この言葉には、クールに割り切らねば、やれないという気持ちも感じられる。
自分を納得させようとする気持ちがこの言葉の奥に潜んでいる。
この考え方は、自衛隊だけではない。
企業の中にも、これがある。
ほんとうにやりたいことだから、ではなく、
まちがっていても、
「我々は、命令が下ればそれに従うだけです。」


幕僚長は、論文に書いたように思いたかった。
母国と母国の歴史につながる自己を否定するのではなく、肯定したかった。
かつての大戦の日本を弁護したかった。
自衛官としての誇りのために。
そういう思いから出た行為だろうか。


80歳、90歳になり、この世を去っていく前に、
言い残していかねばならないと考えた元日本軍の兵士たちが、
今まで黙っていた過去の戦争体験を語り始めている。
自分たちは何をしたか、
自分たちは、軍隊の中でどのような悲惨を体験したか、
あの戦争はどういうものだったか、
秘めていた自らの罪、上官の罪、軍部の罪、彼らはそれを証言している。
加害と被害の、戦後60年経っても、深く心を切り裂きうずく体験を、涙ながらに語る人もいる。


幕僚長は、歴史からも元兵士の証言からも学んでいない。
隊をつくっていく上官としての資質を備えていない。
目的・大義をもちたい、
誇りをとりもどしたい、
そのために過去を美化し肯定しようとした。


「我々は、命令が下ればそれに従うだけです。」
隊員のこの「忠義」意識は、幕僚長のような考え、まちがった権力機構のなかで使われていくとしたらどうなる?
過去と現在がここでつながる。


過去を正視し、間違いを厳しく認め、批判することから、
未来に向けての、ほんとうの目的・大義が生まれてくる。
ほんとうの誇りと理想が生まれてくる。
それが戦後の日本の良心だったと思う。
日本の正義はそこから立ち上がってくる。
今回政府は幕僚長を処分することはした。
だが政府の見解には、どことなく厳しさが欠ける。
過去をごまかすことや、あいまいにすることでは世界から尊敬される国にならない。