喜びを分かち合う 悲しみを分かち合う


まだ開発の大波が押し寄せる前のこと。
ぼくは19歳だった。
仲間二人と夜行列車に乗って冬山の偵察登山に出かけた。
信濃森上駅から静かな山村を抜け、山道を歩く。
一日かけて登ってきた神の田圃、森の中にぽっかり開けた湿原地帯、
池塘が点在していた。
10月の午後の日に、色鮮やかな紅葉が輝いていた。
白樺の白い幹、米栂が天を突く。
原生林のうねりがどこまでも続いていた。
白馬連峰には冬の兆しがあった。
ヒワヒワと鳴く小鳥の声以外は何も聞こえない。
日は温かだった。
湿原の西北に小さな早稲田大学ヒュッテ、南に成城学園のヒュッテがひっそり建っていて、人の気配もない。
あまりの美しい眺めに嘆息しながらも、心のなかに満たされない何かがあった。
その景色を思う存分味わいきれない。
眺めていても満たされない思い、
誰かにこの眺めを分かちあいたいと思う心、
この美はあまりにももったいなく、
自分だけが喜びを独占することに満足できない心、
満たされながら満たされない、どうしてこんな気分になるのだろう。
自分の心の微妙な動き。
そのときのことを、ぼくは青春期の山行記録に書いた。
文章は今も残っている。


人間というものはそういうものなのだな、と思う。
独占することに満足できない心がある。


板倉聖宣(理学博士・「仮説実験授業研究会」をつくる)が、語っていたのも、そのことについてだった。


 「もともと人間というものは最低限の生活が出来るならば、自分自身の喜びのほかに他人の喜びまで喜ぶことができる大変おもしろい存在だと思うんです。
それは食欲などいろいろな欲望と同じように、場合によってはそれよりもはるかに強いものとして存在する。
人間というのは全部利己主義的なものとしてすましたいわけだけども、
にもかかわらず我々はごく当たりまえにみて、
多くの人々が『自分が喜ぶことよりも他人が喜ぶ方がうれしい』というような性格を持っているのではないでしょうか。
 たとえばミカンを持っていて、それを人にすすめる。
そのとき、自分がおいしいという感覚もすごく大事でそれが基礎なんだけども、
同時に他人にも食べさせておいしいと思ってくれる、その方がもっと長く喜びが続くような、
そんな感じのものじゃないかという気がするんです。
こういうことがもし本当だとすると、
『社会』というものが人間にとって生きがいの一つのもとになるだろう。
そういう人間関係といいますか、他人のことまで喜べるような、喜ぶことが容易であるような、他人のことまで悲しむことができるような、
そういう組織というものを考える必要があるのではないでしょうか。
そういう『他人の存在はすごくありがたい存在である』ということを前提として、
しかも他人に束縛されず、脅迫されず、
また他を束縛しないでいくような組織形態というものが欲しいということです。
 ところが、もともと社会とはそういう性格であったということがほとんど忘れられてて、
両極端に走ってしまう。
 『自分たちの意志で、ある連中を動かそう』というグループと、
『そこから逃げ出そうと、終始一貫個人主義的にいくべきだ』というグループができます。 
 社会的な人間関係というものは、基本的に大変楽しいような側面があると同時に、
人間個人個人が違うわけだから矛盾拮抗が起こるのは当然です。
それをうまく解決していけるような組織というものが一番の原則だろうと思います。」
            (「板倉式発想法  主体性論 実線論組織論」キリン館)


「もともと社会とはそういう性格であった」「もともと人間とはそういう性格であった」、
この見方から、もう一度現代社会、現代の世界を観ていくことが大事だと思う。