防災訓練

日曜日、朝6時半に無線放送が入った。
この地域、各家庭に防災無線機が設置されていて、朝6時半、昼12時半、夜8時半に地域のニュースが放送される。
地震など災害発生のときは、何時であろうと臨時放送が行なわれる。
今朝は地震発生を想定した防災訓練の放送だった。
地震が発生しました。マグニチュード5.8です。糸魚川静岡構造線活断層が原因と思われます。
甚大な被害がでています。隣近所に声をかけ助け合って、公民館に避難してください。……」
そんな内容だった。


防災無線機なるものの存在を知ったのは、こちらに住んで2年半も経った先日のこと。
地域の自治評議員会に出席したときに、市の防災訓練計画の説明があった。
訓練は日曜日の午前中に行なわれる、行政と関連機関、および市民も参加する大規模な訓練だった。
その実地訓練には各居住区の自治会から10名ずつ市民が参加する。
メンバーにぼくも入ることになった。
防災無線の存在を知ったのは、そのことがきっかけだった。
防災無線放送とは何ですか。」
質問したら、
「え? 知らないのですか。おうちに無線機が設置されていませんか。」
区長が驚いている。
引越しをしてきたときに、市の係員がチェックを怠ったため、こちらはその存在を知らないまま今日に至ったのだった。
数日後、区長が役場に連絡してくれた結果、我が家にも無線機が入った。
レンタルということで、小型ラジオのような無線機を役場から持ち帰り、居間の壁に取り付けた。
災害が起こらないときは、朝昼夜の3回、短時間だが、役場からのお知らせが入る。
「ゴミの野焼きをしないように」とか、「カントリーエレベーターに今年の米を持ち込むのはいつまで」とか、
音楽が流れてその日のお知らせが入る。
夕方5時半には、「夕焼け小焼け」のチャイムが流れる。
お隣の家からときどき聞こえてきたときは、昔田舎の家には有線放送が導入されていたから、てっきり有線だと思った。
無線機が付いて、地域のお知らせが音楽に乗って聞こえてくると、なんとなく地域の情感が吹いてくるようで、地域共同体の一員としての住民意識が少し高まる感じがする。


その日の朝、防災訓練放送を聴いてぼくは、すぐに訓練項目の初動態勢に入った。
すべての電源を切る、ガスを止める、出口を確保する、一連の行動をとってから、第一次避難先、公民館に走った。
公民館には選抜された10人と区長、および担当の役場の職員が集合していた。
「雨にならなくてよかったですねえ。」
今日は一日天気がもつようだ。
区長さんからヘルメットを借りて着用し、全員訓練会場の小学校へ車で移動した。


小学校の訓練会場には、各地域から集まってきた市民約100人が運動場を向いて座席についていた。
市の行政関係者、職員、消防署、消防団、警察、自衛隊日本赤十字社員、医療機関の職員も、おおぜいテントを張り、消防車、救急車、パトカー、自衛隊の災害救助車などが停車して準備態勢を整えている。
最初に参加者は避難名簿に名前を記載し、煙道体験をする。
細長いテントの中に吸っても大丈夫な煙が充満していて、そのなかに二枚の仕切りがある。
参加者は、一人一人テントの中に入って一方の入り口からもう一方に出るのだが、
充満した煙で、視界は全くきかず、手探りで途中の仕切りを開け閉めして通過していくわずかな距離でも、焦りと不安感をおぼえる。
煙を吸ってはいけないと思っても、とても息がもたない。
吸っても大丈夫な煙だからよかったものの、これが有害ガスだったら、たちまちアウトになることは必至だと感じた。
「体を低くかがめていけば、煙は薄いね。煙は地面に近いほど薄いからね。」
背後からテントを出てきた一人が言った。
「そうだったですね。忘れていた。」
ぼくがそう応えると、
二酸化炭素は下のほうにたまりますよ。」
佐々木さんが言う。
初めて会った人たちとも、体験を共有すると会話が始まり、
半日で急速に親しくなった。


訓練は消火器で火を消す、バケツリレーで火を消す、担架でけが人を運ぶ、抱えて搬送する、応急手当訓練、
これらのいずれかに市民は参加する。
ぼくは消火器で火を消すメンバーだった。


災害に出動する専門組織の訓練が始まった。
グランドに壊れた家がつくられていて、車が土砂で埋まっている。
自衛隊員が車の屋根を切断して、閉じ込められていた人を救出する。
救急車が救出された人を病院に運ぶ。
火災現場が再現され、消防車が出動して消火をする。
ブルドーザーが出てきて、土砂を取り除く。
日赤奉仕団が炊き出しを行い、救急ご飯を参加者に提供する。


この地区にある活断層が30年以内に大地震を引き起こす確立は15パーセントであると言われている。
災害にそなえて防災訓練をおこない、
一人暮らしの高齢者や要介護の人で、災害が起こったときに救護に来てほしい人の地図も作成されている。
今日の会場になった小学校の体育館も校舎はたいへん立派だ。
5カ町村が合併する前は村の小学校であったが、どうしてこんなに立派なのかと、参加メンバーに聴いてみたら、
元はボロ校舎だったが、耐震校舎に建て替えたのだという。
「他をおいても教育に金をかける村だったんですよ。」


また一歩、地元の人たちに近づくことが出来た一日だった。