戦後教育と日教組

20歳だった槙枝元文さんは青年学校の教師になり、岡山県国民学校高等科2年生(今の中学2年生にあたる)を教えていた。
1941年、県から命令が来た。
少年航空兵と満蒙開拓少年義勇軍の志願者を1名すつ推薦せよ、
槙枝先生は教室へ行き、生徒にその旨を告げ、希望者を募った。
ほとんどの生徒が手を挙げた。
槙枝先生は常日頃から生徒に「聖戦」の話をし、
勇敢に戦ってお国のために命をささげることが男子の本懐だと教えていた。
その成果だった。
槙枝先生は、二人の生徒を選んで家庭訪問をし、親の了解を得て、少年航空兵と満蒙開拓少年義勇軍に送り出した。
その後、槙枝先生にも召集令状が来て、入隊することになる。
戦局は次第に悪化、槙枝さんは北海道の通信隊にいたときに戦争は終わった。
岡山に帰った槙枝さんは、少年航空兵と満蒙開拓少年義勇軍に送り出した二人の生徒のことが気になり、消息を調べることにした。
その結果は、
少年航空兵になった子は、マレーシアに行く途中撃墜され戦死、
満蒙開拓少年義勇軍に入った教え子は生死不明になっていた。


槙枝さんは今年6月に、回想録を出版された。
そのなかに、このことを書いておられる。


 「私は衝撃を受け、すまないことをしたと思った。さっそく戦死した少年航空兵の家にお供えの花と線香を持って訪問した。
玄関先で待っていた母親は、私の顔を見るなり、私に跳びかかってきた。
『先生は何ということをしてくれたんですか。
お国のために軍隊に行けとか、一家一門の名誉だとか言って、
私の息子を指名し、まだ徴兵検査を受ける歳にも達していない子を戦場に送り出して……。
先生が余計なことをしなかったら、いま元気で一緒に暮らしていたはずです。
戦争には負けたし、あの子は死んだし、その責任は先生にあります。』
 母親は、あふれる涙を拭おうともせず、『あの子を返して』と叫び続けた。
私は、ただただ『申し訳ありません』と深く頭を下げ、逃げるようにしてその家を退去するほかなかった。
 私は戦前の教育に対する反省と責任という重い課題を抱えて悩んだ。
それは教師として当然負わなければならない責務でもあった。」


やがてアメリ進駐軍の方針もあって、文部省の新教育指針に基づき日本各地に教職員の組合が結成されていった。
槙枝さんの岡山でも県教組が結成された。
そして1947年6月8日、日本教職員組合が誕生する。
結成大会は、奈良県橿原建国会館野外講堂で開かれた。
「色あせた国民服姿で、軍払い下げの雑嚢やリュックサックを肩に、つま先の破れた靴を履いて参加する教師の姿が目立った。」
そして綱領の決定。


一、われらは、重大なる職責を全うするため、経済的、社会的、政治的地位を確立する。
一、われらは、教育の民主化と研究の自由の獲得に邁進する。
一、われらは、平和と自由とを愛する民主国家の建設のために団結する。


日教組の不滅のスローガンであると槙枝さんが言う、「教え子を再び戦場に送るな」は、1951年に採択された。
朝鮮戦争勃発の直前、再び戦争が日本に忍び寄っていたときだった。
戦争が始まると、アメリカ軍は日本を前進基地として戦闘を展開し、自衛隊の前身、警察予備隊がつくられる。
「教え子を再び戦場に送るな」は、婦人教師からの発案であったという。
戦争に積極的に協力し、子どもを教化して戦場に送り出した教師、
国家主義軍国主義の教育に忠実だった教師、
修身教育によって子どもを忠良なる臣民にしていった教師、
その過去を恥じ、反省して、きっぱりと新たな道を歩み始めようとする教師たちの姿がそこにあった。


槙枝さんは、やがて日教組の役員になり、委員長になった。



槙枝元文さんは今87歳、
回想は、「槙枝元文回想録  教育・労働運動に生きて」(発行 株式会社アドバンテージサーバー)にまとめられている。