日教組と子どもの学力

         <中山国土交通大臣の認識>



「失言」というのは、「言ってはいけないことを不注意で言ってしまうこと」の意だが、
言ってはいけないこと」とは、「他人に差しさわりがあるから言ってはいけない」であり、
言ってしまうとトラブルになったりもする。
では口に出さなければいいのか。
言わないで心に思っていることまで問いただすことは出来ないが、
心に思っている限り、いつか失言や放言となって外に出てくる。
何よりも思っていることは行動態度に現れる。
中山国土交通相の発言は、「失言」ですまされる問題ではない。
政治の最高責任の位置にある人の知性、思想、認識は、
政治に反映し、社会や国民にはねかえってくるからだ。
成田空港の歴史、
踏みにじられ土地を奪われた農民の歴史をどのように認識しているか、
日本列島に住む民族、
アイヌ民族の歴史を大臣はどのように認識しているか、
日教組の組織率の高いところは学力が低いというのは本当か。
それを全国学力テストで証明された?
これも戦後教育の歴史認識を欠落していることを大臣は「失言」によって証明した。


組織・集団に所属して人が動くとき、
功も生じれば罪も生じる。
それはずべての組織集団にあてはまる。
活動が、硬直したり行き過ぎたり、タテマエ主義になったりすることもあるし、
集団が構成員の知恵と能力を引き出し、見事に力を発揮して、優れた実績をあげる場合もある。
各学校分会の教組も同じで、すぐれた組織活動を展開したところは、教育実践においても実にすぐれた成果を生み出してきた。
日本の戦後教育の歴史を、偏見なく調べれば分かることである。


日教組の全国教育研究集会に何度か参加したことがある。
山形教研は雪のなかを宿から分科会に出かけていった。
会場の学校の、寒い教室の生徒机に座りながら、全国の教師の報告を聞いた。
沖縄教研では、全体集会にエイサーを踊る高校生の群れが練りこんできて、
その迫力には激しく感動した。
北は北海道、南は沖縄、都会から僻地からはるばる駆けつけてくる全国の教師たちの、
子どもたちを愛し、子どもたちの幸福と平和を願い、
日夜の実践の疲れが顔に疲労の色をにじませてはいても、
持ち寄った手作りのうずたかいレジュメをもとに教師たちは、
国語、算数・数学などの教科指導について、
あるいは生活指導、学校行事について、自分の地元方言をにじませて生き生きと語り合ったものだった。
激しい意見対立や内部闘争を経験したこともあった。
しかし、教室や学校での実践、研究を持ち寄って、各府県の教育研究集会で研究討議し、
そのなかから全国集会に送り出されたものは、
地道で貴重な教育実践であり、そこには多くの学びがあり、希望やヒントがあり、
それらを交流し学びあい、ふたたび教師たちは故郷の子どもたちに還元していった。
それが日教組の全国教育研究集会だった。
国民の目には届くことがなかったであろうが、
この貴重な実践研究をまじめに機能させてきた府県、市町村の教組・学校では、
実に質の高い教育実践が行なわれ、子どもたちの学力の向上もあったのだった。


中山氏は、元文部科学大臣であり、2004年に全国学力テストの実施を導入した。
その目的が、日教組の組織率と学力との関係を調べるためだったということか。
そしてその結果、相関関係があったという認識を得たのか。
しかし、結果は中山氏の認識どおりではなかった。
あまりに事実を知らない、でたらめである。


歴史認識も、事実認識も、社会認識も、あまりにひどすぎる。
「失言」「放言」の問題ではない。