伊藤さんの志を打ち砕いた銃弾


アフガニスタンで、ペシャワール会伊藤和也さんが、反政府武装勢力によって殺害されたという報道に接す。
アフガンに緑を!
アフガンの子どもたちが飢えない国を!
志をもって、アフガン農村にとけこみ、農民たちと歩んできた伊藤さんが、なぜ?


「私がなぜアフガニスタンに関心を持つようになったのか。
それは、アフガニスタンの復興に関係するニュースが流れているときに見た農業支援という言葉からです。
ペシャワール会の会報とその活動をテーマにしたマンガ、それらを通して現地に行きたい気持ちが、強くなりました。
私が目指していること、アフガニスタンを本来あるべき緑豊かな国に戻すことをお手伝いしたいということです。これは2年や3年でできることではありません。
子どもたちが将来、食料のことで困ることのない環境に少しでも近づけることができるよう、力になればと考えています。
甘い考えかもしれないし、行ったとしても現地の厳しい環境に耐えられるのかどうかもわかりません。
しかし、現地に行かなければ、何も始らない。」
志願動機に伊藤さんはそう書いていた。


ペシャワール会は、医師・中村哲代表の会で、パキスタンアフガニスタンで、医療活動や農業支援活動を26年間にわたって行なってきた。
アフガニスタンでは、診療所を各地に設けて治療活層を行い、1500箇所で井戸を掘った。
15キロの灌漑用水路をつくり、荒地を耕して稲を育て茶を栽培しサツマイモをつくった。
日本政府の支援を受けず、国民の援助だけで行なってきたNGO団体だった。


岩村昇という医師がいた。
岩村医師は、ネパールで結核をはじめとする伝染病撲滅の医療活動を長年にわたって行なった。
ネパールに渡ったのは1962年だった。
岩村医師はクリスチャンだった。
1958年にキリスト者医師のアジア会議が開かれ、日本にもたらされたその報告が岩村医師の心を動かす。
「アジアの人たちが、われわれを待っている。インドネシアの病院には、患者が満ちあふれ、医師も看護婦もいない。」
日本キリスト者医科連盟は、海外医療協力の活動を開始する。
今も活躍中の97歳の医師、日野原重明先生が、連盟の総会で叫んだ言葉が、岩村医師の心に深く刻み込まれたという。
「ネパールへ医療奉仕に、とくに公衆衛生医を求めている。」
そうして岩村医師はネパールに飛び、そこでの活動が約20年に及ぶ。
岩村医師は、所属していた医科連盟の歴史について書いている。こんな歴史があったのだ。


1938年、戦禍の中国大陸に数人の医師、看護婦が、医療伝道に出かけていった。
日中戦争のさなかである。
「彼らは中国の貧しい片田舎の町に一つの小さなテント張りの診療所を作り、日本兵によって先祖伝来の土地を踏みにじられ、焼き払われ、あるいは飢え、あるいは病んでテントになだれこんでくる中国の農民たちの治療に、昼夜の別なく活躍していたのである。
 中国の僻地で、乏しい予算と人手不足にめげず、医療活動の小さな灯を守りつづけてきたのが日本キリスト教青年会医科連盟のメンバーであった。」(「ネパールの碧い空」講談社


岩村医師は、その歴史を受け継いでいこうと考えた。
岩村医師の心をを支えたのは、高校時代に読んだシュバイツァーの自叙伝の一節だった。
「少年の日に抱く夢の大きい小さいが問題ではない。その夢をいつまでも持ちつづけるかが問題なのだ。」


岩村医師はネパールの山村で、トイレをつくって回った。
「私が驚いたのは、なんといっても村のすみずみにころがる夜明けの残骸であった。
一介の公衆衛生屋として、あらゆる伝染病の元凶となるこの排泄物をなんとか処理せねばならぬ。
私は村人たちを説得し、行く村、行く村で便所を作ってまわった。」
だが、これはなかなか大変な活動だった。
「ジャングルに行く」、村人たちの「トイレに行く」という言葉だった。
排泄物は昼の太陽で乾燥し、雨が降ればきれいに洗い流してくれる、何をわざわざトイレを作る必要がある、
それが一般民衆の考えだった。
「ネパールの各家庭に便所をゆきわたらせるのも私達のネパールを健康な国にする百年計画の一つとなった。」(「ネパールの碧い空」講談社


このような先人の歴史が、その後の盛んな海外支援NGO活動やJICAの活動につながっている。
伊藤和也さんの夢は、断ち切られた。
「誰もが行きたがらないところに行き、誰もがやりたがらないことをする」
それがペシャワール会のメンバーの信念。
伊藤さんとともに農業をつくってきた現地の人たち、伊藤さんを慕う現地の子どもたち、彼らがこれから、伊藤さんの志を受け継いていくことを強く願う。