柔道は剛道になった

 

ぼくの家族が住んでいた町の警察が、町で柔道を教えている柔道師範に、少年育成のために柔道サークルをつくってほしいと依頼したことで生まれたサークルに、中学生のぼくも親しい友だちと一緒に入って習うことになった。
当時の警察は自治体警察であって、市町村の警察ということになっていたから、住民にひじょうに近い存在だった。
サークル発足式は、警察の道場で行なわれた。
署長があいさつし、指導する柔道師範が模範演技で、居合の術を見せてくれた。
道家の家には道場があり、毎週1回そこへ練習に行き、礼節から立ち方、受身、技へと入っていった。
師範は、柔道の理念をよく話してくれた。


柔道の精神は、「柔よく剛を制す」である。
自分の体格が小さくても、自分の力が弱くても、自分より大きく強い相手に勝つ、それは相手の力を利用して技をかけるからだ。
相手の動きをよく見る、相手の力がどのように動くかを見る、そして相手の動き、相手の力をうまく利用する技をかける、すると、相手は自分の力によってふっとぶのだ、力づくで相手を倒すのは柔道ではない、だから柔の道というのだ。


この理念を徹底して教えられた。
試合は自然体で始まり、技をかける機を見つけようと、動いていった。


オリンピックの柔道の試合は、JUDOの試合であり、柔道ではなくなってきている、と言われてきたが、今回の北京オリンピックはその傾向がさらに顕著になった。
見ていて、少しも爽やかな気持ちになれない。
「剛よく柔を制す」になっている。
逆転している。
力の強いものが勝つJUDO。
1本で勝たなくてもいい、ポイントをとって、勝てばいい、
何をしても勝てばいいのだ、
それが露骨だ。
いきなりタックルをかける。
技ともいえぬやり方でポイントを奪う。
レスリングのようになってきている。
それならレスリングだけにすればいいと思う。
金メダルをとった石井選手は、
世界の柔道は時代に合わせて進化し変化している、時代に合わせていかなければ勝てない、
と語っていた。
彼はそれを実行して金を取った。
それも一つの行き方だろう。
しかし、日本柔道の伝統がグローバル化して「柔」ではなくなり、根本精神まで骨抜きになるなら、
柔道の存在意義が失われていく。
それなら名を変えよう、「剛道」と。


努力が報われてメダルを獲得するのはうれしい。
しかしメダルを獲得することに血眼になるのは哀しい。
メダルを取らなかったらふがいないとでもいう非難の声は聞くとさらにむなしい。


漢の武帝の『秋風辞』にある1節、
「歓楽極兮哀情多。(かんらくきわまってあいじょうおおし)」
歓楽が最高潮に達すると、どういうわけか逆に胸のうちに哀しみを覚える。
青年のころ、はなやかな宴会やパーティのあとに、この句が脳裏によみがえり、
なんだか哀しく、むなしくなることがあった。
北京オリンピックは過ぎ去っていった。
夏が過ぎ、秋がやってきた。