北京オリンピック

          彼らの心中を察する


走らずに棄権した。
日本の女子マラソン代表、野口。
中国の男子陸上110m障害代表、劉翔
二人ともアテネに続く金メダルの期待は、大きくのしかかっていた。
4年間積み重ねてきた厳しい練習の、最後の仕上げに襲ってきた足の故障。
野口は試合数日前に欠場を決定した。
劉翔は試合にのぞみ、スタートに立ちながら棄権した。
これが4年間の結末となった。


彼らの心中を察する。
むなしさ、挫折感が噴き上げる。
うちのめされた心が哀しみの淵に沈んでいく。
国民の期待に応えられなかったくやしさ、ふがいなさ。
劉翔は、試合前の控室、痛む右足でドアを何度も蹴っていた。
この脚で走っていいのか、走れるのか、
走れない、走っても勝てない、
激しい葛藤、いらだち。
しかしここまで来てしまった以上、棄権できない。
痛む足で挑戦するしかない。
巨大なものに突き動かされていく自分、
そしてスタートに立った。
1回目の合図、足がスターティングブロックを蹴った瞬間、
劉翔の思いが決まった。
スタートは他の選手のフライングによってやり直しになったのだが、
初めの1歩で脚は心に伝えたのだ。
彼は決断した、棄権しよう。
その瞬間まで、彼は葛藤し苦悩していた。
競技場を埋め尽くす大声援はもうなかった。


スウェーデンの男子レスリング選手が表彰台に立った。
彼は銅メダルを首に受け取った。
その直後に起こったこと、
彼は、表彰台から下りると、メダルを床に置いて立ち去った。
彼の心中を察する。
この出来事の報道の最初は、「メダルを投げ捨てていった」だった。
次に得た報道は、「メダルを床に置いていった」だった。
「投げ捨てていった」という表現をすれば、審判の判定に対する怒りと抗議が強く表れる。
「置いていった」という表現をすれば、メダルを受け取ることを潔しとしない、彼の思いが際立つ。
メダルを受け取らないのは、誤りに屈したくないという潔癖感があるからだろう。
写真を見ると、彼は体をかがめてメダルを床に置いている。
投げ捨ててはいない。
彼は、表彰台に立ち、メダルを首にかけてもらうまでは、大会の流れに乗った。
銅メダルを受け取ってから、行動に出た。
彼も葛藤しただろう。
その結果、突発的な行動に出てしまった。
「誤った判定に服することを潔しとしない自分の心、
自分は自分の心に従う。」
しかし、これは受け入れられることではなかった。
オリンピック委員会はメダル剥奪、選手失格の処分を出したという。
人間の行なう判定には、間違いもおきよう。
それでも判定に従うのがスポーツマン精神ではないか。
彼は、怒りの感情に流された。


様々な重圧の中で、
満たされぬ思いで去っていった人たち、
舞台に上らずして去っていった人たち、
挫折感から虚無感、あきらめ、
そして時間が流れ、
そのときの経験が、やがて肥やしになって稔ってくる。
それがばねになって、
そこからまた次の人生がはじまる。