「子供の領地」飯島耕一


  <子供の領地> 走り出したら    
                 飯島耕一


 走りだしたら止まれなくなった子供がいた。その子供を引留めたのが何であったかは知らない。
 彼はそのあとで、止まりたい時に、自在に止まれる彼の二本の足を、あらためて検証した。
 よかった、大丈夫で。あの時は走らずにいられなかったんだ。
 その子供はなみだがいっぱい、二つの目にためたまま、ゴールを過ぎてなお止まれないで走った。
 足の方で和解しようとしないので。子供は無限に和解したがっていた。
 悪い夢をよく見るのは子供だ。子供は苦しかった。息が切れるにつれて、体温が下がってきた。
 もうあんな出来損ないのことは、突発事はないはずだ。もうあんなことはないはずだ、
 だけど走らないではいられなかった。
 あの時は走らないではいられなかったんだ。


▽    ▽    ▽


子どもには、いったん動き出したら、止まれなくなるときがある。
走りだしたら止まれなくなる。
自分の中にためらう気持ちや、
ストップしたほうがいいんではないかという気持ちがあるのかないのか、分からない、
勢いのままに行ってしまう。
ほんとうは、止まりたければ止まれる足を持っているのに、
気持ちが足を止めようとしない。


このような子どもの動きは、よくない結果を生んでしまうことがある。
だが、よくない結果になるという判断をすることなく動いてしまう。
結果を考えることなく、そのときの自分の内部から湧き出てきた力に突き動かされて動いてしまう。
詩人の長谷川龍生は、「子どもの健気さ(けなげさ)」と言った。
子どもに健気さがなくなったら怖ろしい。
どんなにいたずらを働いても、不始末をしでかしても、子どもらしい健気さがあれば捨てたものではない、と。


それは子どもだけのことではない。
青年には青年の、走りだしたら止まれなくなることがある。
さらに年をとっても、走りだして止まれなくなることはある。
自分の内部から湧いてくる、走りだしたい気持ち、思い切ってやってみようとする気持ち。
計算や打算はない。


その結果、失敗することもある。
挫折者になることもある。
挫折しても、また勇気を奮い起こして、走りだすことがある。


若者が走りだして止まれなくなった事件が、最近いくつか起こった。
悪い夢を見たあの若者たち、苦しかったのだろう。
取り返しのつかないことをしてしまった。
もっとそれまでに夢中になって走ることをやっていたら、やれていたら、
そんな突拍子もない出来そこないの、致命的なことにはならなかっただろうに。


走りだしたら止まれない、それは個人だけではない。
個人のそれが集団に反映して、集団が走りだすことがある。
企業が走りだして止まれなくなることがある。
国が走りだして止まれなくなることがある。
日本もそれを経験してきた。


この詩を初めて読んだときは、なんだか飲み込めなかった。
ところが、ある日、この詩が、すとんと感じられた。