ナガサキ、被爆した樹

長崎原爆に遭ったカラスザンショウという木のことを知った。
爆心地から500メートル離れた城山小学校に生えていたカラスザンショウは被爆した。
カラスザンショウは強かった。
爆風とともに襲った数千度の熱線に耐えた。
木は、生き延び、今も生きつづけている。
木には、城山小学校の子どもが書いたらしい次のような説明文が付いているという。


   カラスザンショウ

原ばくを受けましたが、かれることなく生きています。
原ばくの被がいで、木のみきがさけてたおれかけていますが、
後にあるムクの木にささえられたり、
薬をぬってもらったりして生きています。
「生命力」の強さを教えてくれます。


「昭和の記憶を掘り起こす  沖縄、満州ヒロシマナガサキの極限状況」(小学館)に、このカラスザンショウのことを中村政則が書いている。


城山小学校の生徒だった奥村アヤコは、原爆投下のとき家から少し離れた友だちの家に遊びに行っていて命が助かった。
しかし家族はみんな死んでしまった。
被爆者、奥村アヤコの生涯は悲惨なものだったが、晩年原爆体験を語り継ぐ活動に加わり、
子どもたちに語るときいつも最後に母校城山小学校に生き続けるカラスザンショウの話をした。
カラスザンショウの後ろにムクの樹があり、カラスザンショウはムクの樹から養分をもらっているのだという。
二つの樹の実際の関係はよく分からないが、
カラスザンショウは、山野に生え、高さは6〜8mで、最大15mになることもあるとか。
7月から8月に開花し、赤い実をつけて黒い種ができ、
サンショウ同様、特有の香りがあるという。
伐採跡など、攪乱された場所にいち早く伸び出して葉を広げる先駆植物的な樹木であると知った。
このカラスザンショウは原爆荒野に生き残った。
ほとんどの生き物が死んでいった爆心地近くで、奇跡的に生き残った人や植物が存在していることに生命力のすごさを感じる。。


今日のA紙に掲載されていたのは、爆心地から800メートル地点にあった山王神社の2本のクスノキ
樹齢は500年とも言われているらしい。
その樹を一人の樹木医が世話をして元気を回復させた。
その人も、1945年8月9日、爆心地から6キロの高射砲陣地にいて、原爆投下の瞬間を体験している。


昨夜の、NHKスペシャル「解かれた封印  米軍カメラマンが見たNAGASAKI」は深い感銘をぼくに与えた。
パールハーバーへの復讐心に燃えた米軍の一兵士、ジョー・オダネルは、原爆投下直後、原爆の効果を記録するために写真班として長崎に入る。
そこで見た光景は、被爆した子どもたちの悲惨な姿だった。
特に心をえぐられたのが、死んだ弟を背に負ぶって、火葬場にやってきた小学生の姿。
少年は弟が火葬にふされていくのを、唇をかみ締め、直立不動で見つめ、やがてどこへとなく去っていった。
オダネルは、軍から禁止されていた被爆者の撮影をこっそり自分のカメラで行い、次第にアメリカの原爆投下に疑問を持ち、
日本人への見方を変え始める。
国に帰ったオダネルは、目撃した被爆の状況から精神が不安定になった。
そして撮影した写真をトランクに封印して、誰の眼にも触れさせないようにしたのだった。
それから40数年の歳月が流れ、
ある日、オダネルはその封印を解いた。
それがオダネルの活動のはじまりだった。
原爆投下は正しかったとするアメリカ世論のなかで、さまざまな嫌がらせや批判にさらされながら、
オダネルは、原爆の投下の不当を訴える行脚に出た。
撮ってきた写真展、講演。
そして思いもかけないことが起こる。
オダネルに原爆症が発症したのだ。
原爆症への危険予知やその後の予防など何一つしてこなかった政府への訴えは認められず、オダネルは死んだ。
オダネルの死後、その活動は息子が受け継いでいる。
ほんのわずかだが、アメリカ人のなかにも変化が起こり始めているという。
今、オダネルの原爆写真展は、長崎で行なわれている。