正田篠枝(しょうだ しのえ)は、爆心地より1.7 キロの自宅で被爆した。35 歳だった。満53 歳のとき、広島病院で原爆症による乳がんと診断され、1965 年、自宅で死去。54 歳。
1947 年、私家版歌集『さんげ』を出版する。この歌集は占領軍民間情報局の厳しい監視・検閲の目をくぐり、広島刑務所印策局でひそかに印刷・発行された。 篠枝はこの歌集名の由来を1962年に刊行した、『耳鳴り―被爆歌人の手記』の序文のなかで次のように記している。
「この悲惨を体験し、何故、こういう目に会わねばならないのであろうかについて、他を責むるのみではなく、責むるべきもののなかには、己れもあるのだと思いました。そうして、不思議に生き残って、病苦に悩まなければならない、自分を省みて懺悔せずにおれないのでありました。それで『さんげ』と、題をつけました。」
篠枝は原爆症で苦しみながらも、1959 年、「原水爆禁止広島母の会」の発起人となり、同会の機関紙「ひろしまの河」にも短歌やエッセイを寄稿した。
篠枝のつくった原爆短歌から9首。声あげて朗読するように、ぼくは分かち書きをした。
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炎なか くぐりぬけきて
川に浮く
死骸に乗つかり 夜の明けを待つ
可憐なる 学徒はいとし
瀕死のきはに
名前を呼べば
ハイッと答へぬ
目玉飛びて
盲(めしい)となりし 学童は
かさなり死にぬ
橋のたもとに
子と母が つなぐ手の指
離れざる
二つの死骸
水槽より 出づ
大き骨は 先生ならむ
そのそばに 小さきあたまの
骨 あつまれり
焼けへこみし
弁当箱に 入れし骨
これのみが ただ 現実のもの
筏(いかだ)木の如くに
浮かぶ
死骸を 竿に 鉤をつけ
プスッと さしぬ
よちよちと よろめき 歩む
幼子が ひとり
この世に
生きて残れり
2歳(ふたつ)4歳(よつ)6歳(むつ)8歳(やつ)
四人の兄妹
べつべつとなりて
貰はれゆきぬ