美輪明宏『ヨイトマけの唄』


 「美輪明宏紅白歌合戦に出るんだって」
 「え、ほんと? 何を歌うのかな」 
  家内とそんなやりとりをした。歌は「ヨイトマケ」じゃないか、そんな気がした。
 その翌日、家内が言った。
 「『ヨイトマけの唄』だって」
 「へえ、やっぱり。それだけ聴きたいな。何時何分ごろ歌うのかな。知りたいな」
短い会話はそれだけで途切れた。
 同じ村に住んでいるIさん夫婦は、美輪明宏の大ファンで、長野市であった美輪明宏のコンサートも松本市であったライブにも行ってきた。聴きたい歌は「ヨイトマケの唄」だったという。Iさんは養鶏をしている育雛のベテランだ。
 ぼくがこの歌をじっくり聴いたのは、以前、夜10時台に放送されていたNHKの番組「人間大学」の中でだった。美輪明宏は自分の人生と思想を語り、「ヨイトマケの唄」を歌った。ぼくはひとりその歌を聴いていた。胸が詰まって涙が出た。美輪明宏という人間が、彼の語りの中から察せられた。ぼくもまた美輪明宏のファンになった。歌を聴いていると、ぼくの子ども時代に見た光景がよみがえった。
 「母ちゃんのためなら エーンヤコーラ」
美輪の歌と同じだった。戦後の貧しかった時代、小学校の通学途中に電車の線路があり、ぼくはその踏切を渡って毎日往き還りした。線路でよく見かけたのは、線路工夫だった。白っぽい作業服のグループは、
 「母ちゃんのためなら エーンヤコーラ」
と歌いながら、ツルハシを枕木の基礎の砂利床に打ち下ろしていた。それからときどき青い作業服を着た一群を見かけた。監督に監視された彼らは、ただ黙々と作業していた。ツルハシを打ち下ろすのは、枕木が砂利から浮き上がらないように、砂利をかためるためだった。硬い栗の木の枕木にはコールタールが塗布されている。レールを枕木に固定する犬釘をしっかり利かす仕事だった。全国に張り巡らされた鉄道の気の遠くなるような数の枕木が栗の木でつくられ、それがしっかり列車を守ってくれている。ぼくは、彼らがその補修をしていることを知るのと合わせて、その青い服の一団が、刑務所で服役している人だということも知った。彼らは模範囚で、大丈夫な人なんだと、そんな知識もどこからだったか耳に入った。歌に出てくる土方という言葉はそのころ一般的に使われていた。
 「土方殺すにゃ 刃物はいらぬ 雨の三日も降ればよい」
 晴れの日には仕事があるが、雨になると仕事はなかった。そういう暮らしを揶揄的に風刺した。
 「ニコヨン」という言葉もよく使われていた。失業対策事業として職業安定所が支払う日雇い労働者への日給は240円だったことから生まれた言葉だった。
 美輪明宏77歳にして、史上最年長で紅白歌合戦初出場となり、自分が作詞作曲した代表曲「ヨイトマケの唄」を歌う。約6分間の歌唱は史上2番目の長さになるという。
 長崎に住んでいた美輪明宏は10歳のとき、原爆投下にあった。爆心地から約4キロの自宅は無事だったが、その後に爆心地近くに住んでいた祖父母を1人で探しに行き、それがもとで原爆症を発症する。長く不遇の時代が続いた。
 ヨイトマケとは重い物を滑車で上げ下げするときなどにかける、「よいとまーけ」という掛け声のことである。女性も家族を養うために、多くこの仕事に入った。
 「父ちゃんのためなら エーンヤコーラ」
と歌いながら。


      ヨイトマケの唄

    父ちゃんのためなら エーンヤコーラ
    母ちゃんのためなら エーンヤコーラ
    もひとつおまけに エーンヤコーラ


    今も聞こえる ヨイトマケの唄
    今も聞こえる あの子守唄
    工事現場の 昼休み
    たばこふかして 目を閉じりゃ
    聞こえてくるよ あの唄が
    働く土方の あの唄が
    貧しい土方の あの唄が


    子どものころに 小学校で
    ヨイトマケの子ども きたない子どもと
    いじめぬかれて はやされて
    くやし涙に くれながら
    泣いて帰った 道すがら
    母ちゃんの働く とこを見た
    母ちゃんの働く とこを見た


    姉さんかむりで 泥にまみれて
    日に焼けながら 汗を流して
    男にまじって 綱を引き
    天にむかって 声をあげて
    力の限りに うたってた
    母ちゃんの働く とこを見た
    母ちゃんの働く とこを見た


    なぐさめてもらおうと 抱いてもらおうと
    息をはずませ 帰ってはきたが
    母ちゃんの姿 見たときに
    泣いた涙も 忘れはて
    帰ってきたよ 学校へ
    勉強するよと 言いながら
    勉強するよと 言いながら
     
    (あと略)