教育汚職との闘い


大分の教員汚職に関して、今日の新聞A紙に、
「教職員組合の動きが鈍い」という投書が出ていた。
みずから傷を負うこともあろうが、全国の教組は国民の先頭に立って真相究明にあたるべきではないか、
このような不正が行なわれてきたことを、組合幹部が知らなかったですまされるか、
にもかかわらず、日教組はホームページで、「捜査、調査の徒上で軽々に断ずるのは適当でなく」と書いている、
これでは国民の同意を得られまい、
という趣旨であった。


もっともな意見だと思う。
教組の組合員も教師であり、現場の実態のなかにいる。
教員採用試験の実態、管理職登用試験の実態、
そこで行なわれていること、
組合員教師も、手を汚してきたかもしれないし、
それらを当事者として知っていることもあろう。
身内の問題にはどうしても甘くなる。
厳しく糾弾すれば、自ら火の粉を浴びることにもなりかねない。


だからこそ、あえて組合は厳しく問題を認識しなければならない。
捜査、調査の途中であろうとなかろうと、平素から組合は問題に直面してきたはずである。
そのことを知っていたならば、あるいは組合員教師の中に加担してきた人がいるならば、
それをオープンにし、なぜそうなっていたのかを明らかにしなければならない。
それをあいまいにするとしたら、
職員組合は教育改革の担い手になることはできない。


職員組合は、いまや組織率もおおはばに低下し、
教育運動の力も、脆弱になっていることは事実だが、
だからこのような問題に対処して運動を組織するだけの力を持っていないと弁明するとしたら、
組合の存在意義はますますなくなっていくだろう。


7月18日に書いたが、
1970年の大阪市職員組合の管理職登用試験汚職糾弾の闘いでは、
教育委員会相手の糾弾闘争、団体交渉が、
中ノ島中央公会堂で行なわれ、
壇上の教育委員会を追及する組合員は、公会堂を埋め尽くした。
そして、全教師が学閥組織から脱退するという自らの闘いを継続して組織した。
問題は自らの内にもある、
そのことを考えない限り、闘いの深化はない。


闘争力、運動力、組織力、団結力など、今の日本は、いろんな面で低下している。
高い組合費を払って入っている価値がない、と思われたら、
組合から脱退する人はこれからも増えるかもしれない。
そういう事態の中で、組合は何をなすべきか、
今の学校には、教育実践や方法論、教育哲学や教育思想などを論じ合う場面がなくなっている。
戦後の組合は、教育をつくっていく旗手であり担い手であろうとしてきたことを、
強く強く認識して、
運動を組織していく原点に立つべきだと思う。