遊びに見るランの意思


棒をくわえて、ランが入ってきた。遊ぼうや。



庭にいるランに近づいていくと、待ってましたとばかりに、
遊び道具を用意するのが、ランのいつもの意思だ。
遊びたがり、
ボロ靴があれば、それが道具になる。
棒切れがあれば、それが道具になる。
こちらの眼をしっかり見て、口にくわえて、引っぱりっこ遊びに誘う。
ぼくが靴の端を持つと、ランの強烈な奥歯がもう一方をくわえ、
ぼくが棒切れを持つと、奥歯にうまくかめるように何度かくわえなおし、
ぼくの顔を見つめながら引っ張る。
ランの引く力は強力だ。
腰を落とし四肢をふんばって、反動をつけながら、ぐいぐい引っ張る。
相手は22キロの体重、こちらは68キロ、
圧倒的にこちらのほうが有利のはずが、ランの引く力のすごさはどうだ。
絶対に負けないぞという意気込みがランにはある。
下手をするとこちらが引きずられる
ぼくが玄関で靴を履いていると、
遊ぼうと、外から棒をくわえて、中に入ってくる。
戸が少ししか開いていないときは、棒が戸につかえて入れない。
そんなときは、ランは知恵者、棒が縦になるように頭を90度横にして、戸の隙間から入ってくる。
とうちゃん、棒引き遊びやろうや。


ランの意思に応えて、真剣に引っ張ると、やっこさんも真剣に引っ張り返す。
その真剣度がすごい。こわいくらいだ。
ランの意思に応えなかったら、どうなるか、
今遊んでいる暇はないよ、と取り合わなかったら、
ランのあきらめも早い。
くわえていた靴や棒をぽろりとそこに落とす。
くわえていたものは眼中になし。


そこで気付いたのは、ランの遊びたいという目的は、靴や棒の遊びが主ではなく、
靴や棒は道具にして、人と遊びたいという、二人の関係のほうが主なのだということだった。
なるほど、
人間の遊びも、一人遊びというのもあるが、二人以上の遊びは、友だちとの仲良い関係のなかで行なわれる。
人と人とで生み出す関係性、そこに遊びの目的があり、楽しさがある。
犬の遊びも、相手の人がいてこそ成立する。
犬の遊びは高度である。


犬は一人遊びをしないか、
ランが子犬のときに買った遊び道具に、
両端が鉄アレイのように中綿を詰め込んでふくらませた布製のおもちゃがある。
両端の球形になったところに、笛がしこんであり、
うまくそこをかめば、キューキューと、音が出る。
初めぼくはそれを手に持ち、指で押してキューキューと音を立てた。
生き物か、
ランの眼はらんらんと輝いた。
それをぽーんと投げる。
ランは獲物に突進してくわえ、かみくだこうとした。
しかし獲物は悲鳴を上げない。
何回か遊ぶうちに、どこをかめばおもちゃが鳴くが分かるようになった。
今はてきめん、必ずかんでは音が出している。
ランは、短時間それをかんでは鳴き声を聞き、獲物をとらえた昔の血をよみがえらせ、
気が済むと、ぽんと置いて、部屋から出てくる。
一人遊びだ。
しかし、それもそこにぼくがいて、その遊びをすると思われるのだが、
一人遊びの特徴、遊びの対象と自分の関係性にグレードアップがあり、
対象が変異していくおもしろさがある。



遊びをする動物は、犬と人間。