竹内浩三「骨のうたう」

竹内浩三は、1945年4月9日、
フィリピンのバギオ北方1052高地で戦死した。
23歳だった。


浩三は、伊勢の呉服屋に生まれ、東京に出て日大の芸術科に学んだ。
クラシック音楽が好きで、よくレコードを聴き、
街のカフェに出入りして、「女給」に恋をし、失恋を繰り返す学生だった。
彼は、映画監督になりたいという夢を抱いていた。


「ぼくもいくさに征くのだけれど  竹内浩三の詩と死」(中央公論新社)に、
稲泉連の取材による浩三の生涯が描かれている。


「たとひ おれを巨きな手が 戦場へつれていっても
たまがおれを殺しにきても
おれは詩をやめはしない
飯ごうのそこにでも
爪でもって
詩を書きつけやう」


このような、殴り書きが、
東京から浩三が姉に送ってきた本の端に書きつけられていたという。
すでに両親は亡くなっていた。
心の内を打ち明けられる存在は姉だけだった。


姉の眼には、およそ戦地に行けそうに見えない浩三ではあったが、
1942年10月、彼にも召集令状が来る。
陸軍2等兵として入営する日のことを、稲泉が書いている。


宇治山田駅には、出征する浩三を見送ろうとする人々が集まっていた。
しかし、浩三は姿を見せない。
浩三は、実家の部屋で、レコードを聴いていた。
軍服を着た浩三は、じっと両膝を抱えてうずくまり、
蓄音機に耳を傾けている。
姉が、出発を促すと、

「こんな音楽はこれから絶対に聴けない。
もうすこし頼むから、最終楽章まで聴かせてほしい」

と言った。
曲は、チャイコフスキーの「悲愴」だった。


浩三の詩、「骨のうたう」は、同人誌「伊勢文学」に掲載された。
生き残った同人によって戦後すぐに編まれた同人誌8号であった。。




     骨のうたう

           竹内浩三

戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し


なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった


ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


竹内浩三は、フィリピンで「ひょんと」死んでしまった。
戦死公報は、戦後に届いた。
骨壷には骨は入っていなかった。