[詩の玉手箱] 『知らない自分』(北村太郎)


この詩を読んで、そのとおりだと、ぼくは思った。
数日前に自分の食べたものをおぼえていないし、
どこかへ出かけたことはおぼえているが、
先週あの日、何をしたかぼんやりしていることが多い。
これでは何かの嫌疑を受けて、アリバイをきかれても、実にあやふやなことしか言えないなと思ってしまう。
いったい自分は自分のことを本当に知っているのかとなると、どうもあやしい。
まずはその詩を。



      知らない自分
            北村太郎


  だれだって
  クリーニング屋から
  整理番号をつけた黄色い細い紙をホチキスでとめられて返されてきたズボンを
  そのままはいて町へ出かけることがある
  だれだって
  遠くから自宅へ電話をかけようとして
  一瞬、番号を思い出せないことがある
  自分に近しいはずのことが
  とても遠くへ
  離れていってしまう日々刻々の
  不連続っておそろしい
  わたくしはてのひらをひろげて
  生命線を見る
  自分がさそり座であることを知っている
  しかし
  おとといの夜なにを食べたかまったく覚えていず
  それに十年前はむろん
  二年前にしゃべったことも  
  きれいに忘れている
  記憶のいい人に
  「おまえはこういった」といわれ
  それがいいことでも悪いことでも「わたくしのことば」として
  他者の肉になっていることに
  おどろく
  ときにはぞっとする
  自分がしゃべったことはすべて嘘(うそ)だったのだと思い
  また、真実以外のことはいわなかったなとも思う
  空(くう)に消えることばなんか
  ひとこともないのかと考えると
  これからは
  きげんのいい挨拶のほか口をきくまいと思ってしまう
  わたくしが知っている自分の表情だって
  あやしいものだ
  何十年ものモノクロやカラーの写真の堆積に中に
  おれの顔はあるとぼんやり考えているが
  また、朝のひげそりや
  深夜、ウィスキーのダブルを生(き)のまま咽喉(のど)へ一息にほうりこんで
  鼻にぬけるアルコールのにおいを感じながら
  顔を洗うときに
  鏡に
  くずれやすく味のないかんづめの魚の骨のような
  おのれの容貌を見るが
  あれらがわたくしの顔とは限らない
  どんなわたくしの知らないわたくしの目が
  どんな他人だけが知っているわたくしの知らないわたくしが
  おびただしく存在したか分かったものではない
  そう考えると当分のあいだ
  一日じゅう鏡をのぞきこんで
  わたくし自身を監視しなければならないと思う
  でもまさかそんなことはできやしない
  どうでもいいが
  知らない自分ってどうしようもないのか
  でも死顔は決まっているのか



だいたいが自分自身、自分の本当の顔を姿を見たことがない。鏡にうつっている顔は本当の顔ではない。
「他人だけが知っているわたくしの知らないわたくしが、おびただしく存在したか分かったものではない」
そうだよ、そうだよ。
他人が見ている「わたし」の知らない「わたし」があるだろうし、
「わたし」の内、奥に潜んでいる「わたし」も、わたしは知らないなと思う。ときどきその潜在している「わたし」が顔をのぞかせることがある。
そしてつぶやく、「バカなおれだ」。
北村太郎の「死顔は決まっているのか」という問い。
ぼくの母が亡くなったとき、親不孝ものだったぼくは、再び目をあけることのない老いた母の顔をきれいだと思った。
自分が死んだとき、自分の顔はどんなんだろうと思うことがある。
穏やかで、安らかな顔だろうか。




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