わが友、わが人生

何歳になっても、出会ったその人と親しい友になるということはあるものだ。
定年退職後の人生を、第2の人生というのは、順番としてはそうではあるが、
むしろ第2のほうが本番かもしれないと思えることもある。


2002年に、日中技能者交流センターの中国派遣教員研修で、
杉原さんと出会った。
宿舎は同室で、研修でも机を並べて勉強した。
2週間の研修合宿の朝は、二人で長い距離をウォーキングした。
ぼくより小柄ながら、元高校の体育教師であった杉原さんは、健脚で、猛スピードで歩く。
ぼくも負けん気を出して、健脚を発揮していた。


杉原さんは、およそ体育教師らしくなかった。
エスペラント語が堪能で、エスペラント語の世界大会に参加するために世界のあちこちへ出かけたりする。
回文を得意とし、上から読んでも下から読んでも同じになるという文を、実にうまく創作する。
杉原さんからの年賀状には、いつも回文が書いてある。
さらにプロ並みなのが、尺八の演奏で、師範の資格をもっている。
好奇心旺盛で、「よし私もやってみよう」という強い行動力の持ち主だったから、日本語教師へのチャレンジもこのときに始まったのだった。
陽気な性格で、きわめて庶民的、
権威とか権力性とか、傲慢なところはみじんもない。


研修合宿を受けてから杉原さんは、中国・重慶医科大学日本語教師として派遣された。
そのときぼくは武漢大学への派遣になった。


2年が経って帰国した杉原さんは、次はJICAから海外協力隊員としてブータンへ行った。
そのいきさつも杉原さんらしい。
日本に帰ってきてから、ある日電車に乗っていたら、JICAの募集広告があった。
体育の教師募集、
ブータンで体育の教師を養成するカリキュラムづくりという仕事だ。
おーう、これは自分にうってつけではないか。
JICAの募集の年齢制限は69歳、ぎりぎりだ。即刻応募する。
そして英語を話せるというハードルを突破し、選ばれて彼はブータンへ行った。
2年間、体育の教師養成カリキュラムをつくるメンバーに加わって、それをやりとげ、
日本に帰ってきた。
そしてぼくは今回の活動で彼と再会した。
「杉原先生、いい体験をしましたねえ。」
ぼくの言葉にはかなり羨望がこもっている。


ヒマラヤの王国、ブータンというと、わがあこがれの国だった。
ブータン探検は京都大学が長年やってきた。
照葉樹林研究の中尾佐助は1958年にブータン探検をおこない、手記を書いている。
ぼくが読んだのは、それから数年後。
山を越えてブータンに入る時、馬を使ったが、途中の森林地帯でヤマビルの大群に襲われた。
ヒルは馬の鼻の穴の中にまで入り込んで血を吸った。
人間の服の襟もとから入り込み、ズボンの裾からしのびこむ。
こういう箇所がよく記憶に残るんだな。
ブータン人の服装は日本の着物そっくりで、日本人のルーツを感じるものがある。
その後、京大の人類学の先生から1990年代の様子を聞いたときは、
近代文明が入りだし、車に乗る人が出てきて、それがもとで、それまでなかった人と人のいさかいが起こるようになってきた、と言っておられた。
そしてそれから十数年、ブータンはさらに変化している。
それを進歩・発展と言えるものなのか、そこが問題で、
その先生の関心もそこにあった。


杉原さんは、尺八を世界にひろげる活動もしている。
今、いろんな国で、尺八を吹く人が増えているそうだ。
杉原さんも世界のいろんなところへ、演奏に出かけている。
杉原さんは、こんなことを言った。
地震の募金活動をしている人たちの後ろに立って、
虚無僧姿で尺八を吹くんですよ。
もちろん袈裟を着て。
そうしたら合掌してお金を入れてくれる人がたくさんいます。」
杉原さんは、今回円空仏のお寺で、円空仏に尺八演奏しようと思っている、
と言った。
寺で演奏する、檀家の人たちがやってきて聴く、
それもすばらしい。


久し振りに会えて、よかった。
「杉原さんの人生、すごいですねえ。」
「現役教師の時代は、高校でかっかかっかしてやっていたけれど、
今は若い人たちに接して、楽しみながら、好きなことをやらせてもらって、
ほんとに若返りますよ。」