ウォルター・ウェストンの見た信州(3)

          常念岳登山


現在、烏川渓谷の入り口にあるウェストンの胸像は、明治27年(1894年)に、彼が常念岳に登ったときのことを記念して建てられたものだ。
彼は、前年にも計画してやってきたが、天候不順で常念岳に登ることができなかった。
登山は、安曇野の現堀金地区から8月にチャレンジしている。


日本アルプスの登山と探検」のなかの常念岳登山の文章を、地元の学校は教材として使っているだろうか。
もし使っていないとしたら、教師たちの怠慢というほかない。
イギリスから来た一人の男が、明治維新からわずか20数年で信州の、彼に言わせれば「未開の地方」にやってきて、
人々と自然を観察し、率直な感想をつづっている。
安曇野の子どもたちが、自分たちの郷土を知り、世界を知るためにも、このような文章を読むことは大切だと思う。


明治27年の夏、安曇野の水田は、大きな将棋版のように山の麓までつづいていた。
路傍の農家では一人の男が米をついていた。
「彼の足の力で大きな杵が引きあげられ、次の瞬間には、鈍い単調な響きとともに、臼の中へどさりと落とされる。」
これは「唐臼(からうす)」と呼ばれる臼である。
足でつく唐臼は、万葉の時代から使われてきた。昔はほとんどの農家で使われていた。


ウェストンは松本から豊科まで熱いほこりっぽい道を歩き、岩原の部落に入る。


「部落は、常念岳の東の出尾根が形成する前山の麓にあった。
村について最初の仕事は、村長を探すことだった。近くには旅館がなかったので、ぼくたちは村長の親切を頼りにするほかなかったのだ。
ぼくたちは失望せずにすんだ。
村長の家は、美しい杉林のそばにあり、鳥居風の大きな木の門をくぐると玄関前の庭に出る。」


美しい庭園のあるこの屋敷は、いまも山口家として江戸時代の建物として文化財に指定されて健在である。
ウェストンは、用件の登山について、60歳くらいのどうどうたる紳士である山口義人氏に切り出した。


「村長たちが、熱心にぼくたちの計画を聞き、それについて意見をいってくれたのは、たとえようもなく嬉しかった。
日本人がよく使う『ほんとうにむさくるしいところですが』という意味の、謙虚な弁解の言葉を述べながら、
親切な村長はきれいな客間を二部屋ぼくたちの自由にさせてくれた。
その夜、ふとんに横たわり、喬木の梢を渡る風の音や、遠い山々にこだまするヨタカの不気味な声を聞いていると、
ぼくたちはほんとうに『たいした身分だ』という気になった。」


村長は、クマ狩りの猟師3人を案内人兼人夫としてつけてくれた。そして彼の息子も同行することになった。
一行は、烏川をさかのぼり、岩を攀じて、頂上を目指す。
午後3時の休憩のとき、猟師がサンショウウオを探し始めた。ウェストンは、


サンショウウオは繁殖力は弱く、分布地域も限られているので、まもなく日本の動物相から消え去ることだろう。」


と予言している。
尾根に出て、午後7時過ぎにキャンプ。そのときのキャンプファイアーの楽しさをウェストンは、


「何と楽しいビバークだったことだろう。低い松の木の影は、燃えさかるかがり火を前にして、ひときわ黒々と見えた。
太い薪がはねる音のほかに、静かな夜の空気を乱すものは、ナイチンゲール(夜啼鶯)の澄んだ歌声か、はるか下から聞こえてくる渓流の絶え間ないつぶやきだけだった。」

ウェストンの言うナイチンゲール(夜啼鶯)は、何という鳥のことを言っているのだろう。これはヨーロッパの鳥だと思うのだが。
焚火に当たりながら、最年長の猟師が「常念岳」という名前の由来を、話し出した。


「昔々、一組の山盗人が、しばしばこの谷のあたりに野営した。ある晩、夜風に乗って山の上から流れてくる不思議な物音が彼らを驚かせた。
それは僧侶が夕べの勤行に読経する声と、鐘の音のまじったもので、何時間とつづいた。
とうとう良心の呵責に堪えられなくなった盗人たちは、
その場から逃げ出して、そのまま二度と姿を現さなかった。
この話を伝え聞いて畏怖の念にうたれた松本平の農民たちは、この山に『常念坊』あるいは『常念岳』という名前をつけ、
それが今日まで残っているのである。
常念岳』とは、いつまでも祈り続けるお坊さんの山という意味である。」


翌朝の眺めの素晴らしさ、槍ヶ岳穂高岳浅間山、遠く富士山までが見えた。
そして外国人として初めて頂上を踏む。
下山して山口家が近づいたとき、同行していた村長の息子が走り出し先に帰っていった。
そのことを不審に思うウェストンだったが、それは彼をもてなすために、風呂にすぐ入れるように支度しに急いだのだということが分かる。


山口家で再び一晩疲れを癒したウェストンは、翌朝後ろ髪を引かれる思いで出発した。
「どうぞまたおいでください。」
繰り返し言われた言葉、
子どもたちの、「さよなら」、
その後もずっとウェストンの耳に残っている。


「まだ『文明化』しないといわれる日本で、心優しい人たちがかつて自分の国を好んで呼んだ、
『君子の国』という称号が、いかに適切なものであるかを、このときぼくはしみじみと感じさせられたのである。」


ウェストンはこのように讃えている。