夜明け前、頭に浮かんできたこと


      教師の職責


夜明けまでまだ時間がありそうな暗さだった。
寝床の中、頭は夢うつつの状態で思考を始めた。
次期の仕事が近づき、頭が仕事脳になってきたか。


今年3月、あの日の彼ら、
勉強が猛烈に遅れていた。
あんなに理解のとろい連中がかたまったのは初めてだった。
ぼくは夜も指導に当たった。
ある日、
よし、今晩はこれをネタにしてみよう、
スーパーで買ってきた、富山県産の玄米を教室へ持っていった。
農民出身の彼らの目の色が変わった。
彼らの生活、身体の記憶が、彼らの中から噴出してきた。
ぼくは米をもとに、彼らとの会話を組み立てていった。
頭の上を通り過ぎていく教師の言葉を、彼らの頭脳に届いていく言葉にしていく、
工夫すれば、それは可能ではないか。
勉学という訓練からはねのけられて生きてきたのだろう。
彼らの頭に入っていかない日本語、
だったら指導そのものの限界を変えることではないか。


本の学校の場合はどうだろう。
教職に就いているものは、職務として一定時間教えるという行為をすれば、それで教えたとなり、児童生徒、学生にとってどうであったかという結果を問われることはあまりない。
100人教えて、50人が落ちこぼれたとしても、教えた人の責任を追及されることはない。
学力がつくかつかないかは、教師の教え方だけでなく、子どもの家庭、子どもの性格・素質、子どもの生活態度、現代の社会環境などいろんな要素がからんでいる。
教える内容を、100人中90人まで理解したら、上々の出来として、
教師は評価され、児童生徒も評価される。
10人の「落ちこぼれ」は、教師の力ではどうしようもないことで、
この10人は、知能が充分でなかった、努力が足りなかった、
一般的にこういう認識になる。
「落ちこぼれ」は「落ちこぼし」ではないかとして当該教師の力量を云々されることはあっても、
責任問題にはならない。


物の生産者はそうはいかない。
売る商品は、100パーセント良品にして売らなければならない。
90パーセントは良い品だが、10パーセントは欠陥があるとなったら、
その責任は生産者に返ってくる。
欠陥商品は許されない。


ところが教育の場合は、一定の基準に達していなくても、それは本人の責任という部分が大きいから、
そこに落ち着かせてしまう。
そしてそのまま卒業させていく。
教師の教育創造、実践はおざなりのままであっても。
教師集団として教育の創造的実践を行なっている学校では、協議しながら、実践を交流し、実践して検討を繰り返し、
質の高い実践を生み出そうとするが、
教師個人に任されていると、停滞した指導から脱皮することは容易ではない。
授業の中で自分のやれる範囲のことはやったが、それ以上のことはできなかった、で終り。


教えることを職務にしている場合、
学ぶ主体は相手だから、
相手がどう学ぶか、を考えて、
こちらの指導をつくっていかなければならない。
指導の目的、自分たちの職責、指導のあり方、考え方、技術・方法、
相手の精神活動。
‥‥
考えている間に、夜が白々と明けてきた。
朝が来た、
ランが起こすだろうな。