ウォルター・ウェストンの見た信州(1)

ランと初めて、烏川渓谷の入り口にあるウェストン像の前に来たとき、
ランは怖がって近寄らなかった。
怖がりのラン、近くの畑の案山子を見ても警戒した。
今はこの両方に慣れてしまったが。
安曇野のウェストン像は、ほとんど人に知られていない。
ウェストンというとレリーフ上高地にあり、
毎年6月14日に碑の前でウェストン祭が行なわれる。
わが国近代登山の父と呼ばれ、日本アルプスを英国に紹介したウォルター・ウェストン(1861〜1940) 、
彼の書いた「日本アルプスの登山と探検」という記録は1896年に出版された。


明治20年代、まだ日本アルプスの名はなく、登山を目的に登る人もいなかった。
初めて槍ガ岳を目指したときは、軽井沢から人力車で松本へ入った。
彼の最初の穂高登山は、猟師の嘉門次を案内人にしている。
登山の記録も興味あるが、当時の信州の人と生活の記録がおもしろい。


こんな記録がある。穂高岳の探検に入るとき、以前に泊まった旅館の信濃屋に立ち寄った。
そこで主人の笹井氏に探検計画を打ち明けると、一緒に行くといった。


「しかし、月曜日の朝、ぼくが出かけようとしているところへ、見たところ機嫌のよさそうな顔でやってきて、
『いっしょに行かれなくなった。』
と言った。
たったいま、友達が死んだと聞いたので、葬式に行かなくてはならなくなったのだという。
彼はそれを言うのに薄笑いを浮かべていた。
こういう話をするときに、しばしば日本人が見せる奇妙な笑いは、
こういう事柄についての彼らの考え方を知らないヨーロッパ人を常にとまどいさせる。
それは多くの場合同情心の欠けている証拠のように誤解されているが、
その笑いのうちにはしばしば断腸の思いが隠されているのである。
あるとき、ぼくの友だちがしばらく会わない日本人の友だちの家を訪ね、
型どおりの挨拶をしてから、特に一人息子の少年の消息をたずねた。
すると、相手は大声で笑い出したので、彼も笑おうとすると、
『いや、あの子は数日前に死にました。』
といった。
 とはいえ、この両親はその子を目の中に入れても痛くないほど可愛がっていたのである。
表情の豊かなヨーロッパ人ならほとんど悲しみを隠そうとしない場合でも、
極東のスパルタ人である日本人は、感情を顔に表すのは礼儀でないと思っている。
彼らはぼくたちと同じような、なまの感情を示さないので、
そういう感情が欠けていると思われてしまうのである。」


と、まあこんな体験も感想を交えて書いている。