人間を成長させる体験 


         厳しい行事の中にあるもの


ぼくが、山梨県甲府第一高校の「105キロ 強行遠足」の実践を知ったのは、ずいぶん昔のことだった。
その遠足をドキュメンタリー番組で知ったときは驚きとともに深い感動があった。
毎年10月初旬に行われている伝統行事で、遠足と呼ばれてはいるが実質は強歩大会、見た映像は、全校生徒が正午に学校を出発して、日が暮れてもなおも夜を徹して歩き続け、小淵沢から八ヶ岳山麓の野辺山、小海を通り、目的地の小諸の懐古園に翌日の正午までに到着するという行事だった。
感動したのは、暗闇の中を自分のペースで黙々と歩く生徒たちを、八ヶ岳山麓に住む沿道の人たちが応援する姿だった。
おにぎりや、味噌汁を用意したり、リンゴを振舞ったりする人もいた。
小諸懐古園が近づいたとき、足をひきづりながら時間までに到着しようと必死に歩く生徒の姿もまた胸にじんと来た。


関心を持ったぼくは、教育研究の関係で、甲府一高の計画主任の先生から取材したことがあった。
歴史は、1924年に始まり、その年は東京方面も含めてくつかのコースを設定したが、
2年目から信州松本方面に変更、1929年から信濃大町が目的地になった。制限時間は24時間。
戦後もそれは伝統行事として続けられた。
甲府一高の校訓は、札幌農学校のクラーク博士の薫陶を受けた当時の校長が定めた、クラークの言葉「Boys be ambitious.」だとか。
強行遠足は、生徒の克己心を涵養する行事としても位置づけられた。
歴史的に最長距離は1957年の甲府-簗場間、167km。
そして、1962年から佐久往還(甲府-小諸間)となった。
戦後は男女共学になったため、女子は、須玉〜小海間の約40km。

それは今も続いているのだろうか。
調べてみると、
2002年に暴走車の事故で女子生徒が亡くなり、その結果、距離、所要時間ともに短縮されていた。
現在は、男子が甲府-野辺山間を11時間(55km)で、女子が須玉-野辺山間を7時間30分(30〜31km)という暫定的なコースが採用されている。
この伝統行事もまた、現代社会の災難におそわれていた。


レベルの高い、ハードな行事はいまや成立しなくなっている。
一度事故が起きると、それ以後行事は中止されることが多い。
事故を恐れ、責任追及を避けようとして、危険の伴う行事は次々と消えた。
できるだけ無難に、安全に、トラブルのないように、そしてわずらわしい仕事はなくしたい、そういう意思が、
骨のある教育実践校を、骨抜きにした。
甲府一高に、距離を短縮してはいるが、まだこういう行事が残っているということは珍しいことではないか。
それだけの伝統校であるからだろう。
卒業生や、地域の人たちの、伝統の継承を願う心があるからだろう。


鹿児島の小学校に、夏休み8月の波の穏やかな日、桜島まで海を遠泳して渡るという行事が行なわれていた。
それを行なっている小学校の先生から話を聞いたことがあった。
4年生になれば遠泳に出て桜島まで泳ぎ渡る、
学校のプール指導はそれを目標に、先生たちは全児童が泳げるように猛特訓していた。
それは、子どもたちにとっても大きな目標であり、下級生の子どもたちは、4年生になればそれをなしとげるんだという夢をもって練習に励んでいた。
夏休みの天気のいい日、遠泳コースを守るために、湾から船は姿を隠す。
子どもたちは列を作り、海に入って泳ぎだす。
ドーン、ドーン、先生や親たちの舟が、泳ぐ子どもに添っていく。
10数年前のこと。
鹿児島市の多くの小学校で行なわれていた、四年生から六年生までの全員の遠泳は、すでに2校に激減していた。
そして夏休みのその行事は、学校行事ではなく地域の行事、父母の主催する行事に変わっていた。
危険を伴うことは学校行事から無くしたい。
こうして、行事は消えていく。


安曇野の学校には、夏休みに北アルプスに登る行事がある。
常念岳、燕岳など、それは今も続いているようだ。


なくなったほうがいいものがある。
残さなければならないことがある。
安易に、ことなかれ主義でなくしていく傾向があまりに多すぎる。


甲府一高で友だちとともに歩きとおした生徒には卒業後も、その体験が生きつづけていくことだろう。
長い1列の帯を作って、海を泳いで渡った小学生の心には、大人になってもその体験は生きて働き続けるだろう。
その体験の幅は生きる力となる。
それを成し遂げたことが、プライドとなる。
そして夢の源泉となる。
一つのハードな体験の共有が、友だちを結ぶ。
子ども同士が、友の汗や体臭を感じながらの身体の体験が皆無になったら、おそろしい。
苦労をともにし、励ましあい、
山を見、星を眺め、風に吹かれ、
夜鳥の声を聞き、農家の人の親切に触れ、
困難を乗り越えていく体験こそが生きる力となる。


学校の教室という空間の中だけにいて、
友との浅い交わりしか体験せず、
家という空間の中にひそみ、バーチャル体験だけに没頭している孤独な精神。
夢はどうなっていくか。


どこの学校を出たのか、という名目的学歴主義はくそくらえ、
大切なのは、どんな体験をしてきたか、
何を学んだか、
他者から何を感じてきたか、という中身だ。
体験の深さと幅こそが人間を成長させる。