上田紀行、ダライ・ラマとの対話(2)

            日本の未来、人間の生き方


文化人類学者の上田紀行氏との対話で驚くのは、ダライ・ラマの知見は高く、その思想がきわめて科学的で、現代の世界の状況を認識しながら人類の未来への道程を探るものであったことだった。
ダライ・ラマは、ただ信心すればいいという宗教観をもっていない。

「仏教を宗教として考えるのでなく、仏教を『心の科学』であるととらえるような観点から見ていくことが大切ではないかと思います。
そこに仏教が私たち人間の持っている本来の価値を促進していく大いなる可能性があるのではないでしょうか。
仏教を『心の科学』という観点からとらえ直し、一般社会の世俗的な教育システムにその知見を取り入れることで、
人間本来が持っている愛とか思いやりといった面をいかに高めていくかという目的に対して大いなる貢献ができるように思うのです。」
ダライ・ラマがそこで指摘するのは、ヨーロッパでは瞑想や心の分析といった『心の科学』として仏教がもっているものを既に使い始めている事実。


上田氏は、以前にスリランカで研究した「悪魔祓い」の事例を話した。
それに対するダライ・ラマの返答も興味あることだった。
上田氏がスリランカで研究したのは、重い病によって落ち込み、無気力になっている人に対して、村人たちが一体となって行なう儀式だった。
村人たちは信じている。それは周りから温かく見守られていない孤独な人に悪魔がとりつくのだと。だから重い病にかかる。
病をいやすには、病人にとりついている悪魔をはらいのけねばならない。そのためには病人の孤独を振り払わねばならない。
そこで村人たちは、笑いあり踊りありの温かい思いやりをたっぷりそそぐ。
そうして病から人は回復していく。
迷信として片づけてしまうのではなく、上田氏は実際に回復している人を見て、
どうして病人は回復するのか考え、心身医学や免疫学に注目した。
そして最も新しい精神神経免疫学に至りつく。


「私たちが互いに協力的で、他者と信頼で結ばれ、受け入れられているような状態、つまり愛と慈悲に満ちているような状態では、
私たちの免疫能力はたいへん高まった状態にあるのです。
しかし、私たちが人から裏切られたりとか、この世界で誰も自分のことを構ってくれないと思ってしまったりとか、
自分に対するひどい仕打ちに対して怒りと悲しみで心がとらわれてしまったりしたようなとき、
私たちの免疫能力は劇的に低下してしまいます。
免疫力、自己治癒力が最大に低下するのは、孤独感と無力感が重なったときだというのです。」


愛と慈悲から見放されたとき人間の免疫力は大きく低下するという精神神経免疫学の事例を上田氏が話すと、ダライ・ラマが応えた。


それは、心の平和がいかに大切か、慈悲や思いやりがいかに大切かを証明する話だとしながら、
「いま大切なのは、私たちの精神的な資質に対する研究です。
特に私たちの感情に関しての研究がたいへん重要だと思います。
その点に関して、仏教の伝統はひじょうに豊かな資源を提供してくれるものです。
ネガティブな感情にはいかに対処すべきか、
ポジティブな感情をいかに高めていくか、
一つひとつの感情に対して非常に詳しく説明しているのが仏教の伝統なのです。」


ネガティブな感情、
怒り、憎しみ、悲しみ、恨み、差別感、ねたみ、優越感、蔑視、劣等感、孤独感、絶望感、
いったいどれだけあるだろう。
現代の戦争はそれらを抱いた人間の最大の所業であるし、いじめは学校など身近な集団でくりかえされている。
それら感情を生み出すのは観念。


上田氏は、日本人があまりに経済成長に価値を置き過ぎ、伝統的な価値を軽んじてきたために、
いまどこに自分自身が立脚していいのか分からなくなっている、しかしそれも一つのチャンスだ、
日本の世界における役割はその苦境のおかげで高まったのではないか、
日本という国のあり方は、21世紀社会のあり方を指し示す意味でも重要な意義を持っている、と主張した。
それに対してダライ・ラマは同意し、次のように応える。
「日本人は、西洋的なものと東洋的なもの、近代と伝統的なものをうまく調和させていく方法を、今こそ見いだすべきです。
よりリベラルな思考形態を使って。
なぜよりリベラルな思考によってと言うかというと、伝統的に日本人は、自分自身を表現することを抑圧するという欠点を持っているように思うからです。」
そしてダライ・ラマは。日本における仏教の復興を説いた。それは上田氏の研究実践してきた大きなテーマだった。


対談の終盤、上田氏のなかではっきりしてきたことがあった。
それは、日本を利他的な国にし、愛と思いやりに満ちた国にしていくことが、この国の真の豊かさと可能性を開くものだ、そこに日本仏教の復興が重要な鍵になる、
競争を激化させ、利己主義を進展させてきた古いナショナリズムで日本を統合しようとすることは間違いである、ということだった。