上田紀行、ダライ・ラマとの対話(1)


兵庫の山の村で和紙づくりをしながら考古学を仕事にしてきた進さんが、
パーティを組んで陸路雲南省四川省からチベットへ行ったのは10年ほど前のことだった。
その旅が、進さんのチベット問題への認識を深めた。
進さんが体験し心の中にあるチベットと、まだ行ったことのないぼくの知識の中にあるチベットとは、
いささかずれていたから、
進さんが問いかける中国に対するぼくの答は答になっていなかった。


20歳なかばの和人君が、単身中国と東南アジアを旅して、再び四川省から陸路チベットに入り、チベットからヒマラヤを越えてネパール、そしてインドへ抜ける旅をやったのは、
ぼくが中国にいた2002年から2003年までを含む長い期間だった。
その体験から和人君のチベットと中国に対する認識が生まれた。
だから、進さんの認識も、和人君の認識も、「中国の一部であるチベット」という認識に疑問符をつけ、
「中国のチベットに対する行為」を問いかけるものを含んでいた。


今年に入って、チベットでの暴動があり、北京オリンピック聖火リレーをめぐる混乱があって、
チベットダライラマは世界の関心事となって浮上してきた。
ぼくの関心も立ち上がった。


上田紀行氏(東京工業大学大学院准教授)が2007年に、ダライ・ラマと二日間にわたって対談している。
その対談記録が日本放送出版協会の「NHK BOOKS」で出版された。
タイトルは、
「目覚めよ仏教  ダライ・ラマとの対話」


上田氏は長年、日本仏教に対して絶望的な思いを抱いていた。
「我々の生きる暴力的な世界をいかに救うか、そして私たちの心の闇にいかに立ち向かっていくか」
上田氏の子ども時代からのこの問い、世界をよりよきものに導いていくことから、日本仏教は最も遠いところにいるように思われ、
「日本仏教の再興」をめざしてダライ・ラマと対談しようと考えたのだった。
上田氏は、21世紀の仏教の可能性を追究する「仏教ルネッサンス塾」を立ち上げ、
「ボーズ・ビー・アンビシャス」を提唱して全国行脚を行なっている。


上田氏は、インドのダラムサラを目指す。
強行軍の末、着いたダラムサラ。光り輝くヒマラヤのふもと。


上田氏とダライ・ラマとの対談が始る。


「外なる平和と内なる平和はいかに調和し、両立するのか、20台はそのことをずっと考え続けたような気がします。」
外なる平和を求めていく社会運動と、
内なる平和を求めていく精神世界の運動、
スピリチュアリティの運動がいかに結合するべきか、
その問いかけを、上田氏は自分の生い立ちを通してダライ・ラマに語っていった。
それは、平和を主張しながら、対立し攻撃する人間への不信があったからだった。


話は、仏教で言う慈悲、愛と思いやりに移行していく。
ダライ・ラマの論は生物学としての論であった。


「私たちは社会的動物であり、生物学的に、他からの愛情を必要とし、自然に他への愛情を持たなければならない生きものなのです。
愛と思いやりは、法律で強制されて生じるものでもなく、
宗教的な教えとして生じるものでもなく、
教育で教えられるから生じるのでもなく、
お金が儲かるから生じるのでもなく、
まさに人間の根本である生物学的な要因から生じてくるものなのです。」


上田氏は、問う。いかにして利他的な社会を建設していけばいいか。


「近代的な教育システムは、人間的なやさしさという、私たち人間にとって欠かすことのできない、一番大切なものを育むことに完全に失敗しています。
社会全体が、この近代的な教育システムを通して形成されているわけですが、
あなたが正しくおっしゃったように、そこでは愛情や思いやりというようなより深いレベルにおける人間価値の必要性を説くことができていないわけです。

‥‥
私は、これこそ今日の社会がお金次第に成り下がってしまっている主な理由だと思います。‥‥
お金次第の社会は、攻撃的な社会で、イジメというような問題も出てきますし、権力のある者が力を思うままに使うことによってほかの者たちに残酷な行いをしてしまう。」


ぼくは、その対談に深く引き込まれていった。
ダライ・ラマとの出会い‥‥、いまだ知らざる‥‥。