対策の前のこと


 
       対策論で終りにしない 



居住区の自治評議員会があった。
住民組織の最小単位は隣組で、
我が家の隣組はたったの4戸。
順番に1年任期の隣組長になり区の評議員会に出席する。
今年は我が家が隣組長で評議員を務めることになった。


日曜日の夜7時半から、公民館で評議員会が開かれた。
評議員会は毎月1回開かれる。
こういう熱心な自治会もあるのだと感心する。
出席者は、区長3人に評議員21人、そして市の担当職員2人。
評議員会の案件は、代表区長会の報告と承認、市に対する要望事項、春の一斉清掃などいくつかあった。


いくつか市への要望事項が出た。
その中に、十字路に信号灯を設置してほしいという意見があった。
そこは交通量が多く、車がスピードを上げてやってくるために渡れないときがある、というものだった。
信号灯の設置はなかなか実現しにくいことで。
信号をつけたために逆に便利が悪くなることもある。
設置の優先順位があり、それは難しいかもしれないと、多様な角度から意見が交わされた。
側溝を付けてほしい、道路を補修してもらいたい、
聞いていて、意見を言うべきかどうすべきか、考えた。
その場で知っている人は前区長と現区長だけ、他の住民の顔は全く知らない、
少し迷った挙句、やっぱり言おうと発言した。


安曇野に来て2年がたちました。
毎日犬を連れて散歩しますが、
我が家の前の道は、抜け道、間道に使われていて、車がすごいスピードで走っていきます。
狭い道路で、歩道車道の区別なし、そこをスピードを落とさず、歩行者の横を走り抜けていきます。
身の危険を感じるときがあります。
ここでは歩く人がたいへん少ない。
犬の散歩の人が少しと、通学の子ども、歩く人はそれだけです。
ほとんどの人は車に乗って移動しますから、歩く人がどんな感じなのか、まったく分かっていないようです。
車社会です。
車の人は、歩いている人の気持ちに無関心であるように思います。
信号をつけてほしいという要望は、車対策として出されているけれど、
問題が起こると方策の方へ話が行きがちで、それはそれで必要なんだけれど、
その前に根本的なこと、交通マナーをなんとかできないか、と思います。
そのうちに事故が起こりますよ。


マナーを何とかする、うーん、どうしたらいいかねえ。
難しいねえ。
それはここでは何ともならないねえ。
道は車のためだけのものではないのですよ。


道路をでこぼこにしたらどうですか、という意見が出た。
そうすればスピードをおさえる。
それはとんでもないことだ。
工場構内とか団地内とかで道路に小さな山を作っているところがありますよ。
でこぼこというのは、象徴的に言っているだけですよ。


車が増える、だから道路をつくる、
車がスピードを上げる、だから交通規則を設ける、
違反が増える、だから取締りを行なう、
交通事故が増える、だから信号や標識などを設置する、
対策、対策、
進歩とともに問題が生まれ、それにあわせて対策をし、方策を考えなければならなくなる。
だが車を運転する側の意識という根本論になると頭を抱えてしまう。


車をやめて、馬に乗りませんか、
バスはやめて、乗合馬車にしませんか、
そんな論は馬鹿げたこととして見向きもされない。


交通問題だけではない。
ゴミ問題も同様、
文明の進歩とともに、ゴミ問題が生じ、ゴミ対策が発展してきた。
ゴミ処理場、焼却場の建設、
ゴミの収集徹底、
住民でゴミ当番をつくる。
対策、対策。
現代文明以前にはゴミはなかった。
根本的なことは、ゴミを生まない暮らし、生ゴミは我が家で処理すること。
もっと原点に帰っていくことはできないか。


文明の進歩につれて、兵器がエスカレートし、戦争も大量殺戮を加速させる。
そこでまた方策を考えなければならなくなる。
進歩するのは、対策の技術、
なかなか進歩しないのは、
人のことや地球のことを考えながら行動する人間性


対策の前段のことがなおざりになっていませんか。
それが言いたかったんだがなあ。