S子さんは、車を運転してやってきて、ほとばしるように思いをしゃべって、
夕方また車を運転して元気に帰っていった。
外見だけでは、身体のあちこちにがんが転移してしまった末期患者とはとても見えない。
だが転移がんが身体を弱らせていることは確実なのだ。
S子さんは、自分の人生を含めて思いのたけを吐き出すように、
疲れはしないかと周りが心配するほど述懐を続けたのだった。
▽ ▽ ▽
あるとき、コーヒーが全くおいしく感じなくなったのね。
それから疲労がものすごく激しくなった。
お腹のこのあたりに、ひょっとしたらがんではないかなと自覚するぐらいまでになって、
やっと病院の診断を受けてみようと決意して行ったの。
そこまで放っていたのね。
毎年の市の定期検診も受けていなかったのよ。
まったくむちゃくちゃ、仕事、仕事だった。
診断の結果は、大腸がん、後2ヶ月の命だと。
もうびっくり。
その日帰ってくるつもりで病院へ行ったのに即入院になって手術、それから抗癌剤。
医師は、100パーセント、がん細胞はとれないというのね。
98パーセントのがん細胞をとっても、2パーセントは残るらしいの。
1回目の抗癌剤が劇的に効いてね、それから定期的に抗癌剤を打って、
2ヶ月の命が延びて3年後の今も生きている。
わたしは34回も抗癌剤を打ってるのよ。
若いころからいろんな活動もしてきて、病気知らずだったのよ。
塩尻に来て、10年間農産物の供給の仕事をするようになって。
なんでも全部、任された限りはやりきらなくてはという、私はそういう性分なのね。
それでばりばりやってきた。
ここの冬の仕事場は寒かった。
もうこんな寒いところはないぐらいに寒くて。
よくこんな寒いところでやっているねと言われるぐらい、
深夜冷え込んだ身体を布団の中に入れても、身体は冷えたまま、温かくならなかった。
それでもがまんして夜遅くまで仕事をして。
大腸がんのことを調べてみたら、
私の生活は、がんになる条件の10か条全部あてはまっていたの。
抱え込んだ仕事、そのストレス。
不規則な生活、睡眠不足、不規則な間に合わせの食事、職場のひどい寒さ、
がんになる要素が全部そろっていたのね。
がんと分かってから、もうがんばって仕事することはやめたわ。
全部、全部、ほうりなげたのよ。
やらなければならないと、頑張る生き方はやめたの。
もう私は自分の人生、思い切りやってきて、それで充分。
余命後2ヶ月だから、背負っているものを全部下ろして自由に生きようと。
これまでやりたくてもやれなかったこと、
やりたいのにやってこなかったこと、
それをやる、そう決めたの。
仕事も、職場も、
自分をしばっていたもの全部、もう見たくもなかった。
やりたいことをやる、
絵が好きで、行きたい美術館にも行かなかったけど、
それも見に行く、
今は自分でスケッチもしているのよ、なかなか完成できないけど。
東京の美術館まで行ったときは、
身体が弱りきっているから駅から美術館まで歩くこともできなくてね、
途中でベンチのホームレスの人の横に座って休みながら、
見たかった「受胎告知」だけ見てきたの。
外国旅行もしたいけれど、免疫力が低下しているから感染症の危険があって行けないの。
気圧の低いところは、酸素が薄いからだめ、苦しくってね。
今も咳が出るでしょ。肺に転移していて、呼吸が苦しくなる。
ここは標高600メートルだからね。
▽ ▽ ▽
もう10数年前になるだろうか。
余命あと6ヶ月の宣告を受けたIさんは、
自分の会社を人に譲り、自分の戒名もつくり、
自分を拘束していたものや観念を解き放って精神の自由を得、
楽しく自由に生きる道を選んだ。
海外旅行にも出かけた。
その結果であろうか、がんは消えた、奇跡的に。
S子さん、これだけ楽しく自由に今を生きているんだもの、
あなたのがんも、消えるよ、きっと、いつのまにか。
そう祈っている。
S子さん、東京に帰りたいでしょう。
帰ったらいいんじゃないの。
美術館の近くに住んで、好きな絵をやりなさいよ。
暖かいところがいいのなら、沖縄もいいのじゃない?
ああ、そうだ。S子さんのご主人Aさんは南紀出身だと聞いた。
望君の地球宿の、薪ストーブの燃える部屋で、Aさんの故郷は新宮だと言った。
その言葉を聞いて、ぼくの脳裏に、ぼくの愛した熊野の深い山と谷、したたる緑、明るい黒潮の海が浮かんだ。
Aさん、故郷に帰らないの、あの暖かい故郷へ。
ぼくの頭に佐藤春夫の詩がよみがえる。
「あさもよし紀の国の
牟婁(むろ)の海山
夏みかんたわわに実り
橘の花さくなべに
とよもして啼くほととぎす
‥‥
空青し山青し海青し
日はかがやかに
南国の五月晴れこそゆたかなれ
心も軽くうれしきに
海の原見はるかさんと
のぼり行く山辺の道は
杉檜楠の芽吹きの
花よりもいみじく匂ひ
かぐはしき木の香薫じて
のぼり行く路いくまがり
しづかにも登る煙の
見まがふや香炉の煙
‥‥」 (望郷五月歌)