S子さんを偲ぶ会

土に還っていかれたS子さんを偲ぶ会は、地球宿で行なわれた。
夜7時ともなると、どっぷり暗い。
地球宿にはあんどんが灯り、料理1品を持参した参加者が、集まってくる。
リンゴ園のアキオ君夫婦は、フーばあちゃんと、産まれたばかりの赤ちゃんに二人の子どもを連れてきた。
地球宿の居間に集まったのは、子どもを含めて20人。
テーブルに並べられた持ち寄りの料理を少しずついただく。
ピザもおいしい。
我が家からは、洋子の作ったイカ飯と天然酵母パン。
地球宿の主、望君が栽培した新米のご飯も格別な味だった。
アキオ君は、リンゴ「秋映え」を持ってきた。


食事が済んで、S子さんの思い出を語り合う。
ほの暗い室内にとぎれとぎれに追想の声と沈黙がながれた。
50代で逝ってしまったS子さん。
想い残すことはいくつもあっただろう。
S子さんの旦那Aさんが、S子さんの生い立ちから自分との出会い、そして社会活動に生きた人生を、
静かに語られた。
初めて聴く話だった。
父親は、今はなき著名な学者であったとは驚きであった。
しかし、実の父母に育てられることはなく、祖母に育てられたのだという。
高校生のとき、その祖母も亡くなり、彼女が葬儀の一切をとりしきった。
それらを聞けば、家族というものが、子ども期から縁が薄かったように思われる。
東京に出て、Aさんに出会って結婚、二人の子どもをさずかり、四人家族になった。
子育てをしていく人生は、彼女の最も充実したときだったかもしれない。
子どもの学校のPTA会長から連合会長へ、活躍の舞台は社会へ広がっていった。


「夫婦として、ほんとうに向き合って話し合ったのは、S子の最後の入院期だったかな。
それまで、それぞれ自分の仕事ばかりをして、互いに向き合って話してこなかったように思います。」
Aさんは振り返る。
熟年に入ってから、Aさん夫婦は、「人が幸福になるにはどうしたらいいか」というテーマを追求する運動体に入った。
そこでS子さんは、街に出て、人の中にはいっていった。
思想や理念を柱にする組織は、思想や理念を具現化することによって、よりよい社会を作ろうとするが、組織維持に凝り固まれば互いを縛り合ってしまう。
S子さんは、人が幸福になるには、自分を縛るものを解き放ち、人と人と心をかよわせることだという生き方を貫いた。
「S子さんには、いつも笑顔があったね。」
みんなが言う。
苦しんでいる人、困っている人、人に寄り添うことに生きた人だった。
だが、何事も徹底してやりきらねばという仕事ぶりが、体を破壊した。
夜遅くまで仕事場に残ってやりきっていたことを、S子さんが我が家に来たときに振り返って話したことがある。
冬の夜、暖房のきかない部屋、深夜に仕事を終えて休むことが多かった。
冷えた体は、布団に入っても暖かくならなかった。
それが朝まで続いた。
ガンの発症はそのせいではないかと、彼女は推測していた。
ガンは進行した。
それでも、彼女は人のために出かけていった。
Aさんがかみしめるように言ったのは、最後の数日、息子たちもやってきて、病院で過ごした濃厚な日々のことだった。
家族の心がぎゅうっとつまった日々、
再びもどってきた家族の日々。
わずかな日数だったが、本当に向き合うことのできた時間だった。
お別れのとき、息子たちは、「ありがとう」という言葉を母に送った。
それはAさんにとっても、S子さんにとっても、救いをもたらしてくれる言葉だった。
命の火が消えかかったとき、S子さんの口元がわずかに動いた。
なんと言ったのだろうと、父と子はささやきあった。
そうだ、母さんも、「ありがとう」と言ったのだ、それが父と子の納得した結論だった。


親の生き方が子どもの人生に反映する。
親の選んだ生き方が、子どもにとってどうであったか。
子どもの幸せへの道を阻害したのではないか、
多かれ少なかれ、親は心を痛めながら、この問いを反芻する。
まちがっていたかと想いながらも、そう生きた、生きてきた、
どの親も、これで充分だったとは言い切れない思いがあるだろう。
私の人生、それはそれでよかった、とS子さんは我が家で語っていた。
子どもは親の選んだ環境のなかで育ち、やがてそこから脱皮して、自分の道を歩んでいく。
Aさん家族の「ありがとう」、その言葉にすべてのものが詰まっている。


「本当に夫婦が向き合う時間をもてたことはよかった。向き合う時間を持つことが大切だと思います。」
Aさんの、みんなへ贈りたいメッセージだった。


S子さんのお骨は、Aさんの故郷、南紀の墓に入れたい、とAさんは言った。
S子さんもそれを願っていたという。
「『空青し山青し海青し 南国の五月晴れこそゆたかなれ』と、佐藤春夫が詠ったところですね。」
佐藤春夫はわたしの故郷の人です。」
Aさんの暖かい故郷、Aさんの父母、親族、大きな家族に包まれて、
S子さんは眠ることになる。


10時半、偲ぶ会が終わった。
夜道は、人も車も絶え、りんご園のなかを帰ってきた。