伊東静雄「燕」

ああ いまこの国に 至り着きし 最初の燕ぞ 鳴く


山にはまだ雪が残っているのに、今年のツバメが病院の軒先に巣づくりを始めていた。
田んぼから泥をくわえて飛んできて、お椀の形に泥を積み重ね、
だからツバメはこんなふうに鳴いているのだと、
昔の人たちは聞きなした。
「土食うて 虫食うて 口渋い」とか「泥食うて 土食うて 渋い」とか、昔の人はいろいろ表現した。
「聞きなし」というのは実に豊かな人間の感性を表しているもので、鳥と人間の関係が近かった時代、それは自然を排除する近代文明や都会というものがまだなかった時代であるが、「聞きなし」は日本語の豊かさを示している。
センダイムシクイという鳥は、「焼酎一杯 グイー」と鳴く。
奈良の名柄にいたとき、夜によくフクロウが鳴いた。「ホッホー ゴロスケ ホッホー」、夜が更けてくると、近くの鎮守の森からフクロウの声が聞こえてきた。

南木曽妻籠に、「大高取」という屋号の民宿があった。
あららぎ川のほとりの昔から農業をやってきた旧家で、わが子がまだ幼いころから毎年そこに泊まって、囲炉裏で五平餅を焼いて食べるのが楽しみだった。
子どもたちが成人してからは、家族旅行でそこを訪れることもなくなったが、近くを通った時ときどき懐かしくなって「大高取」に立ち寄ったことがある。
あるとき、「こんにちはー」と声をかけて、大戸をくぐって広い土間に入ると、たたきにツバメの巣が落ちていて、ヒナが二羽巣の中でふるえていた。
見上げると梁に打ち付けてあった板がはずれ、その板の上に作られた巣も一緒に落下したのだった。
それは、完全な家の中の巣で、親鳥は大戸の下を通って巣に戻ってくる。
だから家人は、いつもツバメが出入りできるように、大戸を半分ほど開け放してあった。
裏の畑から帰ってきた奥さんは、なつかしそうに満面の笑顔で迎えてくれ、
ツバメの巣の落下を知ると、
「あれまあ、落ちただかや。ヒナは大丈夫かや。」
と心配顔になった。
早速ぼくは金づちを借りて板を梁に取り付け、壊れた巣をその上にヒナと共に載せた。
その後、ヒナは無事に育ったかどうか分からないが、その後また時を経て訪れたとき、
あのときのことを奥さんは話題にした。
それからすると、ヒナはたぶん無事に育ったようであった。

詩人・伊東静雄は、1939年に「燕」という詩を作っている。
そのころ日本は、日中戦争に突入し、次第に滅びの道を進みはじめていた。
戦場に出て行った友人にあてて伊東は、初燕を見たときの感銘を手紙に書いて送っている。
「汝、この国に至り着きし最初の燕!」
この一文は、詩の中でも使われた。
ツバメを見ながら、伊東は遠い戦地の友を思っている。



        燕

 門(かど)の外の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽燕ぞ鳴く
 単調にして するどく かげりなく
 ああ いまこの国に 至り着きし 最初の燕ぞ 鳴く
 汝 遠くモルッカの ニュウギニヤの なほ遥かなる
 彼方の空より 来りしもの
 翼さだまらず 小足ふるひ
 汝がしき鳴くを 仰ぎきけば
 あはれ あはれ いく夜しのげる 夜の闇と
 羽うちたたきし 繁き海波を 物語らず
 わが門の ひかりまぶしき 高きところに 在りて
 そはただ 単調に するどく かげりなく
 ああ いまこの国に 至り着きし 最初の燕ぞ 鳴く



日本に帰ってきたツバメたち、海を越える南の国からの旅路は、どれほどの困難があったことだろう。
あの小さな体で、雨風を突きぬけ、荒波の夜の海を渡り、
そしていま、この安曇野にも戻ってきた。
春の光を浴びて、ツバメはしきりに鳴いている。
小足がふるえ、翼はまだ旅の疲れを残している。
それでもツバメたちは、もう巣作りを始めているのだ。
何度も何度も、この詩をぼくはくちずさむ。