国語の授業


   面白くないのはなぜ?


小森陽一は、小学校低学年のときに旧チェコスロヴァキアの首都プラハで暮らすことになった。
父の仕事の関係で、家族もプラハで生活することになったのだが、
通うことになった学校はソヴィエト大使館付属のロシア語学校。
授業はすべてロシア語で行われ、学校生活ではロシアの子どもたちが話しかけてくる声になすすべもなく、
ただ身振りや手振り、絵を描くことで対応したが、
やがてロシア語も話せるようになり、家の近所ではチェコ語、家では日本語を使い、
頭の中で考える言葉はロシア語になった。
小森が日本に帰るのは小学校6年生の終り。
中学校からは日本の学校で学んだ。
本の学校とロシア学校の二つを体験した小森は、日本の『国語』の授業について考えるようになる。


小森陽一、ニホン語に出会う』(大修館書店)のなかで小森は、国語の授業が嫌いになったいきさつについて書いている。。
「『国語』という教科の授業時間に、いったい何をやっているのかが、私にはまったくのみこめなかったのです。
まずはあの『国語教科書』なるものの、内容のなさとつまらなさ。
どの文章もやたらに短くて、中にはつぎはぎになっている文章があったり、尻切れトンボや頭なしトンボ、羽なしトンボのような文章の羅列。」
「私の予想をはるかに上回る退屈さが『国語』の時間には待ち受けていたのです。最も苦痛だったのは、そしてついに理解できないまま終わったのは、あの『段落分け』という作業。」
「次にびっくりしたのは、この『段落分け』に従って、『要旨』をまとめよ、という課題が出ることです。そんなことをしたら、この文章の面白いところや、大事なことばはみんな消されてしまうのではないか、といった私の心配をよそに、授業は淡々と進んでいきます。そして驚くべきことに、その板書された貧しいことばこそが、試験のときの正解になっていったのです。」


小森の体験したチェコスロヴァキアの首都プラハでの、ロシア学校の授業は違っていた。
「『祖国の語り』という科目の教科書には、近代ロシア語の基礎を築いたプーシキン以後の著名な表現者の散文や詩が、社会や歴史、自然や人事をめぐるあらゆる領域にわたって収録されていました。
つまり、すぐれたロシア語による表現によって『国語』も『社会』も『理科』もみんな学んでしまうという、一種の総合科目のような要素をもっていた授業だったと記憶しています。」
「授業の中心は、それぞれの生徒が、教科書に載っている文章を丸ごと暗記して、それを表現力豊かに発表するというものだったのです。
定評のあるロシア語の文章や詩を、その形をこわすことなく、自分で操ることのできる表現として身体に刻み込んでしまう方法をとっていたわけです。
もちろん、このようなやり方が、唯一の最もすぐれた言語教育の方法だ、という気はありませんが、水準の高い言語表現を暗記して再表現するということは、そのことばを自らの言語にしてしまうことにほかなりません。
それだけでも一回性の美しさを持つ表現を解体し、反復可能な凡庸なことばにまとめていく作業より、どれだけ有効かわかりません。」
「『祖国の語り』の授業は、生徒が声を出す場であり、教師は生徒の発表に対し短いコメントをするぐらいでした。」


お定まりの国語の授業のやり方に対して、この小森の体験は示唆に富む。
確かに国語の授業は、退屈な、楽しくない「こまぎれ分析」の授業におちいりがちだ。
教科書と指導書に縛られて授業を行っている教師は、
自分の授業をふりかえり、
もっと他によい実践があるのではないだろうか、と考えることから始めなければならないだろう。
生徒の心に響く授業を、
生徒が読み取り、感じ、考えたことを、中心にもってくる授業を、
大胆に創造していくことだと思う。


小森陽一は後に日本の近代文学を専攻し、大学教授になった。