29歳だったか、30歳だったか。
3月の単独行の山だった。
積雪は多く、5合目の山小屋は完全に雪に埋まっていた。
たったひとりの山、なぜ登る?
心のはずみも楽しみもない、ただ寂寥感があるだけ。
なぜ行くのか?
自問する。
潜んでいる意思だった。
峻烈な自然のなかに自分をおこう、
孤独な登高に身をさらそう、
そんな欲求。
御嶽山を選んだのは、大阪から木曽福島までの距離が近かったこともある。
王滝から登り、樹林地帯を抜けて5合目に到着したときは、夕暮れが迫っていた。
5合目の小屋は見当たらない。
探すと、こんもり雪が小山になっているところがあり、
その下に山小屋が埋まっていた。
テントは持ってこなかった。
雪洞を掘るよりも、この無人の小屋に泊めてもらおう。
小屋の入り口へは、雪の洞穴から潜りこむことができた。
ドアを開けて中に入ると、板の間に炉がある。
火を焚く。
煙突は雪に埋まっていなかった。
火を見つめながら、歌を歌う。
知っている歌を次から次へと歌う。
大声を出して歌う。
誰もいない世界のなかで歌いつづけた。
響く自分の声が自分の中に入ってくる。
孤独は孤独、だが寂しくはなかった。歌え歌え。
11時ごろ、炉の火のそばで、横になって寝た。
翌朝、快晴、スキーをかついで、雪原を登る。
べた雪だった。
頂上に着くと、そりを付け、転倒を繰り返しながら下降。
ひとつやり遂げたと思った。
自分のなかにひとつ何かができていた。
力が湧いていた。
それから10年経った。
39歳だったか、40歳だったか。
新雪の白馬岳に単独行で出かけた。
困難をきわめる過酷な職場の、どうにもならない閉塞感。
運動体のなかが割れ、連日連夜、対立は職場の仲間たちを苦しめた。
自分の中でぼろぼろ壊れていくものがある。
心がよれよれになるような状態から脱出しよう。
山へ行こう。
ちっぽけな人間の観念の世界から離れて、
ひととき大きな山の気にひたろう。
山の力を五臓六腑に満たしてこよう。
白馬連峰は快晴。
山に登山者の姿はなかった。
大雪渓はやせて、あちこちにクレバスやシュルンドがぱっくり穴を開けていた。
一歩一歩雪の上を登っていく。
わずらわしい下界の汚れを吐きだすように、
息を弾ませながら、白馬岳の稜線に出る。
ツェールト(携帯簡易テント)を出して潜り込んで一夜を明かす。
氷点下の3000メートル。
冷気は身体を突き刺した。
翌日も快晴、岩場を登る。
宇宙に身をさらす天地の間のたった一人。
薄氷が張っている。
連峰を縦走して下山した。
身体に満ちてくるものがあった。
湧いてくるものがあった。
理想を追いながら相克に呻吟する日々の苦悩は、額に鉛の重石がぶらさがっているようだったが、
山は鉛の塊を消してくれていた。
勇気が湧いた。
山が自分を救ってくれた、
日常にもどったとき、はっきりそのことを実感する。
ピンチのとき、山はいつも自分を救ってくれた。