親切を断るべきか


   願い


スーパーマーケットを出た5人の若い女性研修生、郵便局へ行こうとしたが、道がわからない。
どう行ったらいいの、中国語で話していると、同じスーパーから出てきた年配のおじさんが、車で送ってあげようと声をかけた。
おじさんのワゴン車を見ると、3、4歳ほどの男の子と女の子が乗っている。
おじさんは、私の孫です、と言った。
そうですか、おじいさんと孫ですか、それなら大丈夫、安心。
女の子たちは喜んで車に乗せてもらうことにした。
郵便局まで送ってもらい、日本人は親切です、と彼女たちは感激して、そのことを翌日担任の先生に伝えた。


教師間でこのことをめぐって、議論になった。
知らない人の車に乗せてもらうのは危険だ。
無防備ですよ。今の日本ではいろいろ事件が起こってるんだから。
そういう場合、断ったほうがいいと、教えるべきだ。
おじいさんと孫だったから、信用したんだねえ。それなりに判断して乗せてもらったのだからいいんじゃないの。人の親切を断ることを教えるのは、わびしいね。
私もスーパーへ行こうと思って道を聞いたら、連れて行ってあげますと言って乗せてくれたよ。この地域、人情が厚いねえ。
教育は、人間らしい資質。人間性を養い育てることではないですか。人を疑え、警戒せよと教えるのは抵抗があります。
しかし、実際に危険な事件が起こっているのだから、危険を見抜き、対処する力を育てるのも教育じゃないですか。大昔から人類は、自然災害や危険な生物に立ち向かう術を教えられ、積み上げてきた。生存のためには欠かせないことです。
ことは実際生活ですから、その場面で、親切を断るか、受け入れるか、どちらかを選択できる力が必要です。


「遠慮」という言葉がある。
自分の本心を抑えて、相手を気遣い、婉曲に断る心理のときに使うが、
この言葉はもともと「深謀遠慮」の「遠慮」であって、
遠い先まで見通した考えのこと。
場面や状況によって判断する。
誘われたが遠慮する。
親切に感謝しつつ、気持ちだけいただいて、ありがとうございます、私たち自分の力で歩いていきますと。
本来の教育は、人と人とが親しくなり、助け助けられながら、自立していく力を養うこと。
人には親切にしよう、人の親切を感謝して受けよう、そうして依存しないで生きていこう。


作家であり僧侶である玄侑宗久さんが書いていた。「命軽き時代 はるかな誓願をもとう」(朝日新聞1月10日)

生き物を殺すなという不殺生戒が、仏教発生以来ずっと変わらず続いてきたのは、
それが結局遵守不可能だからだ。
生き延びるためには無数の殺生をしなければならない。
そのことを自覚して懺悔し、不殺生を誓い続けるのである。
実現不可能な戒をどうして立てるのか。
実は実現不可能だから戒は永遠のものになる。
完璧な成就が不可能だから永遠の誓いなのではないか。
不可能を目指し続ける人間は、たぶん美しくなる。


そうして玄侑宗久は、「はるかな誓願をもとう」と提案する。
最近の殺人事件で逮捕された容疑者は、キョトンとしている。
罪の意識が感じられない。
法令を厳しくし決まりで規制し、道徳教育に力を入れても、犯罪は減らない。
それは、本人が、そうしようと誓わないからだ。
本人が、そうしようと誓わなくては、罪の意識も自制も生まれない。
現代の不幸は、はるかな誓願をもとうという発想がないことだ。
これが玄侑さんの主張である。


現代社会、
人間の生き方として希望を語り、理想を描くことがうとんじられている。


人を助け、人の喜ぶ顔を見るとうれしい。
そしてまた、人の助けを受けるとうれしい。
人間の奥底にある願い。
それが教育の根源とかかわってくる。