山の郵便配達


      返事をしない人


この1年半の間に、3度郵便を送った。
けれども彼は返事をよこさない。
彼に託し、彼が引き受けてくれたものを、送料着払いで送り返してほしい、
それだけのことなのだが、うんともすんとも返事をしない。
事情があるのか、考えがあってのことなのか、感情が拒否しているのか、全くコミュニケーションがないから分からない。
無視をする、僕からの思いを切り捨てる、その行為だけがメッセージになってこちらに伝わってくる。
彼は組織の責任ある立場にある人間である。
公的な職にある社会人である。
そういう人間が、返答すらしようとしない、どうなっているのか、と思う。


無視され、不実を押し通されると、こうも精神的なストレスになるとは思いもしなかった。
夜中に目覚めると、そのことが頭に浮かび、思いが飛び回る。
腹の中にストレスの塊ができている。
こんなことに煩わされるのは、ばからしいから、あきらめて捨ておけ、
というささやきが自分の中から起こる。


しかし、と思う。
こういう行為がまかり通ることを放置していいのか、
この人物が社会的に行う活動は、大丈夫なのか、
この人物がリーダーを務める組織はどうなるのか、
問題はこれだけのことではすまないと思う。


真夜中、風がびゅうびゅう吹いていた。
眠気がどこかへ行き、想像が羽を広げた。


これまで書いて送った3度の手紙にしても、
それを書くのにも、相手に対して気遣いをしながら文章を書き、推敲を重ねた。
長い時間をかけて、こちらの気持ちを伝えようと、表現にも心を砕いた。
手紙というものは魂の断片でもある。
それを、郵便の業務に携わっている人たちは、遠く彼のもとまで確実に届けてくれた。


あの更科源蔵の住んだ家は、町から4キロも離れた原野のなかの1軒家だったが、
郵便配達はそこまでもやってきて、郵便を届けてくれた。
想像はそこから海を越え、あの「山の郵便配達」に飛んで行った。
中国で映画にもなった、彭見明原作の小説。
中国・湖南省の、車も通わぬ山奥、郵便配達は郵便物を袋に入れ天秤棒に担いで、山から山へと配達して回る。
老配達員は、ひざの病気でとうとう仕事を引退しなければならなくなったとき、
息子がその跡を継いでくれることになった。
最後の配達業務は、父が息子と一緒に歩いて、必要なことを教えることとなり、
父は息子に言う。
「おまえが歩くこの道は、200里(約100キロ)ばかりである。途中で2泊しなければならないから、3日がかりだ。
足もとに気をつけろ。道は狭いし、つるつるした敷石に足を滑らせるから。
急ぎすぎてはいけない。道はずっと同じ速さで歩いたほうがいい。長い道のりなんだ。暴食には味がなく、早歩きは長続きしない、と言うぞ。」
郵便は配達するだけではない。発送の小包や手紙を受け取って、それをまた持ち帰らなければならない。
そうして二人と愛犬は、出発する、40キロの荷物を息子が担いで。


もう寝よう、なんとかして。
想像はまた現実にもどった。
手紙は勝手にポストに届くと思っているのが現代人か。
水道の水は蛇口をひねれば出ると思っている。
過程が消える思考。
相手のことを、他者のことを想像できない人間が、社会を動かそうとして、どうなることだろう。
無視されることはいやなものだ、つらいものだ。
では、無視するほうはどうなんだろう。
彼も決して快いものではないだろう。