さすが大阪や


         今日も一日、ごくろうさん


午後5時を過ぎた大阪環状線の電車のなかは、少し混み始めていた。
停車した駅のホームから、降りる人と入れ替わるように七、八人の乗客が入ってきた。
そのなかに50代ぐらいの、いかにも労働者といった感じの、日に焼けた大柄な二人の男性がいた。
一人は空いた座席にすわり、背負っていたザックをひざに置くとペットボトルの水を一口飲みはじめた。
もう一人はドアの近くに立った。
彼はザックを背から下ろし足元において、電車の椅子の端から天井と床をつないでいる、ぴかぴか光る鉄の棒をにぎった。
鉄棒はつり革同様に、揺れる電車の中で体を支えるために使われる。
ぼくは、立っている男のすぐ近くの座席に座っていた。
目の前には、ペットボトルを口にしている男がいる。
発車した電車がスピードを出し始めたときだった。
「みなさん、今日も一日、ごくろうさん。一日ごくろうさん。」
立っている男だった。
電車の進行方向に向かって彼は立ち、左手で鉄棒をにぎって、乗客たちに向かって大声で叫んでいる。
車内にいた乗客たちから、反応はない。
ぼくは、「ありがとう」と言おうと、言葉が出かかったのだが、
一瞬かすかなためらいがあって、声にするのをストップした。
すぐのタイミングを逃してしまうと、もう言うことがない。
乗客から何の反応もなかったが、どことなく空気がほぐれた感じがした。
男は酔っているのだろうか。
酔っているようでもあるし、酔っていないようでもあり、
だが正常ではない状態で、その言葉が出たとは思われなかった。
前の席に座っていた男は笑顔を浮かべている。
のどをうるおした男は、ザックをもって、「ごくろうさん男」のところに席を立って行った。
「今日は‥‥」
よく声が聞き取れないが、
一日働いてきた人たちに、ごくろうさんと言いたくて言っているが、その反応が今日は返ってこなかった。
昨日は反応があったんだがな。
そんなことを言っているようで、
次は下車駅の改札で言おうという小声が、聞き取れた。
南海線との連絡通路にある、大勢の人が通る改札で、
また、ごくろうさん、と言おうと考えているようだった。
今宮駅で二人は降りていった。
「さすが大阪や」
あのとき、「おおきに」とでも、大阪弁で言えばよかったなあ。