『信濃むつみ高等学校』


   地球が学校、その修学旅行
 

松本市にある、「地球が学校」という『信濃むつみ高等学校』に、大きな魅力を感じている。
長年やりたいと思いながら、ぼくには実現できなかったことを、その学校は実現し、実践している。


7年前、ぼくは「森の学校、創造の森学舎」というフリースクールを描き、
自然と農、創造の体験を重ね、協議、共同の練習を積むことによって、子どもたちに生きる力を育てようと、
自分の持てるものは何も無いまま、廃校を探し、古民家を修復し、休耕田を耕し、
条件ゼロからはじめたのだったが、
耕作と大工に明け暮れていたある日、中国の大学で日本語を教えるボランティア活動を知り、
日中技能者交流センターから送り出されて武漢大学に行き、その体験から考えたことがあった。
「自分で舞台を作ろうとして遅々として進まず。しかし、考え方を変えれば、自分で舞台を作らなくても既に舞台はあり、そこで待っている人がいる。」
そしてぼくはそれからその舞台にひとまず乗ってみようと考えた。
日本語教師の道はそのひとつだった。
自分で作っていく過程は徒労だとは思わない。
しかし、見方考え方を変えれば、別の舞台があるにもかかわらず、それを知らず、時間の空費になっているかもしれない。


信濃むつみ高等学校』通信制、そこもまた志を持つ人が作り上げている舞台で、
その舞台に乗って、人生を刻んでいる若い人たちやスタッフがいることを知った。


通信制の『信濃むつみ高等学校』が、どんな学校であるか、
まだ詳らかには知らない。 『黄土高原 紅棗(なつめ)のみのる村から』の写真展を観、
その会場で受付をしていた学生二人と話をしたことと、
ホームページやスタッフのブログから分かったこと、それだけであるにしても、
だが、そこから感じる人間味の豊かなスタッフの生活と感性に魅かれるものがある。
今年の秋も、『信濃むつみ高等学校』は修学旅行を行い、
そのブログを読んだ。
それは、驚きの旅だった。


『むつみ高校』が開校した年から今年で5回目の中国修学旅行である。
その修学旅行というのは、どんなものだったか。(ホームページのブログによる)


スタッフの一人は、生徒たちより一足先に神戸から船で天津へ向かい、北京から平壌行きの国際列車に乗って瀋陽に向かった。
瀋陽では、朝鮮族が多く暮らす西塔の民宿に泊まる。客はほとんど韓国から来た商売人。カタコトの日本語が話せる人が多い。
「民宿のおじさんおばさんはと〜っても親切。まさに“家庭の味”が楽しめる。」
とスタッフは書いている。
「長辺1キロにも満たない地区に、商店・飲食店・カラオケ・サウナ・美容院等々が密集しているのですが、そのほとんどが朝鮮族中国人ないしは韓国人が経営していて、看板もほとんどがハングルなのです。もちろんキムチやキンパッブ、マッコルリなどを売っている店もあちこちにあって、中国にいるという気がしません。」
「生徒たちにもここに1泊してもらう予定です。中国に来て、韓国人と身振り手振りで会話し、でももしかしたら彼らは日本語を解するかもしれないし、中国人とその上に北朝鮮人とロシア人でもやってきたら、ほんとうにまったく“国境”なんかどこにもないんじゃないかと、混乱に混乱を重ねるすばらしい“修学旅行”となることでしょう。」
すべては完璧に安全で、無難に修学旅行が終わることだけを念じて計画をするのが、一般的な日本の学校で、
「混乱に混乱を重ねるすばらしい“修学旅行”となることでしょう」なんていう発想はとんでもないとなる。
だがこういう発想こそが教育なのだ。すばらしい。
困ったことや混乱することがあって、人間は考える人間になり、問題を解決する力を身につけるのだから。
やがて瀋陽空港に13人の生徒たちが到着し、西塔の民宿に泊まる。
瀋陽から一行は、バスで国境の町、丹東に向かい、丹東市東港にある日本語学校の生徒たちと交流を行った。
日本語学校に到着するや、校門に『歓迎信濃むつみ高等学校』という横断幕がかかり、なんと講堂に全校生徒が集まって歓迎の式典があったのです。地元のテレビ局の取材付です。急なことにもかかわらず、ふたりのむつみ生が壇上であいさつをしました。日本を出て、“生き馬の目を抜く”中国にまでやってくると、人格まで変ってしまうのでしょうか? 開き直って実に堂々としたものでした。
東港日本語学校の生徒たちは3年生ともなると、ほんとうにみんな日本語が上手です。最近の日本人が使えなくなった“敬語”もきちんと使える人多く、日本人よりよっぽど日本人らしいという声も。
翌日、みんなで丹東市内に出て、鴨緑江大橋を一緒に参観し、町に出て買い物をしたりして交流しました。別れるときには涙を見せる子たちが双方にいて、今年もまた、短い間ながら熱い交流だったようです。」


それからバスをチャーターして河口まで行き、農家に泊めてもらう。
満州族居留地区で、生徒たちはここで歴史の勉強を行った。
翌日船をチャーターして、鴨緑江を遡る。
中朝両国にまたがる長白山を源とする鴨緑江は、国境となっている川で、朝鮮の岸辺から時には50mくらいのところを上流へ向かった。
スタッフは、その印象をこうつづっている。
「実をいうと今回、朝鮮の岸辺の人たちの暮らしぶりがこれまでと比べて、とても“明るい”ものに感じられたのです。ちょうど収穫の時期と重なったということもあったかもしれませんが、みんな生き生きと労働に勤しみ、男たちが投網をかけ、子供たちが川で遊び、道行く人たちも船の上から手を振る私たちにニコニコと手を振り返してくるのです。中には投げキッスを返してくるおじさんもいたほどでした。北朝鮮の社会できっと何かが変化しているのだろう、それは人々に希望を与えるものに違いないと、私は感じました。もっとも、私たちが乗っている船の船尾に掲げられた旗が五星紅旗ではなく日の丸だったら‥‥? そんなことも考えながら“国境を見る”一日は、13人の生徒たちに貴重な“宿題”を残して無事終了しました。」


その後、日本軍の暴虐の跡地、撫順にある平頂山へ行く。
そして列車で丹東から北京へ戻って北京観光。宿泊は、世界の若者が集う北京ユースホステル
天津からは船「燕京号」で日本へ。帰りの50時間もみっちり勉強ができる。
中国滞在が10日間、船中を加えて2週間で費用は10万ぽっきり。


毎年秋に行われるテラ・スコラツアーはここ3年間、「中朝国境」を訪ねる旅を企画しているという。
少人数であるにしても、学校の準備するスタッフだけで、このような旅を行った。
三年前、ロンドンへ修学旅行で来ている日本の高校生に出会ったことがある。
旅行業者の添乗員や教師が付き、どことなく生気がなく、日本の街で見かける姿と変わらなかった。
その地で一生懸命生きている人間に触れることで得られる文化的ショック、発見、驚きのない旅は、日本の名所旧跡を巡るのと大差は無い。
フィリピンの貧しい人々の地区を訪れて子どもたちに触れる修学旅行をしていたミッション系の女子高校があった。
修学旅行で生徒は日ごろの日本での生き方を大きく揺さぶられて、変わっていったと、
その学校の教師をしていた健一郎さんから聞いたことがあった。