安曇野シンポジウム(2)


   本日、安曇野に雪降れり。


「世界でいちばん行ってみたい国はどこですか、と問えば、スイスと答える人が多いです。
では、スイスと言うと、どんなイメージですか。」
ぼくの頭には、マッターホルンが浮かんだ。続いてテラスに花を飾った家々。
スイス・ツェルマット観光局セールスプロモーション担当の山田桂一郎氏は、一枚の写真をスクリーンに映した。
「みなさん、この写真のどこに眼が行きますか。」
背景に山、前景に瀟洒な民家、牛の群れと一緒に歩いている少年2人が映っている。
「みなさんの眼はたぶん前景の民家と牛と少年に行くと思います。
「スイスらしさというのは、こういう風景ですね。
今でもスイスでは子どもたちが家の仕事の手伝いをして、牛や羊を山に連れて行ったりしています。
スイスが観光地化したのはそんなに歴史が古くないです。18世紀後半です。」
多民族国家、多文化国家、多言語国家のスイス、川ひとつ、山一つ隔てればもう外国のようだ。
それがスイスであり、それだけ個性豊かな国なのだ。
モノの豊かさ”を実感する旅ではなく、“心の豊かさ”を実感できる旅を提供する必要があって、スイスの旅の個性が生まれた。
住んでいる人の顔が見える、住民の生活が見える、人はそういうところを旅したいと思う。
伝統ある地域、長年住んでいる人々がその地で文化を生み育て、個性的な地域のライフスタイルを持っている、
そういうところへ行きたいと人は思う。
スイスはとてもスイスらしい。スイスらしさでスイスは成り立っている。
人々は、“スイス”というブランドを認知してもらえるように努力している。
そこに他の国から来る人は魅力を感じる。


「では、日本の場合、日本らしさとはどういうところですか。」
山田氏は問うた。
自然、神社仏閣などの文化遺産、伝統的な町並みの残るところ、‥‥。
京都、奈良、日光、高山、白川郷、富士山、阿蘇、‥‥。
江戸時代、日本に来たドイツ人のケンペルが魅力を感じたのは、日本らしさだった。
今、日本人が誇りを持って日本らしいと言えるのは何?
「スイスでは、学校で子どもたちに地域学の授業を行っています。」
村の中を牛を追って子どもが山へ行く。
何十年変わらぬ姿がある。
地域を知り、地域に魅力を感じ、誇りを持ち、地域の後継者として子どもは育っていく。


「ここに安曇野の写真があります。」
山田氏が続いてスクリーンに映したのは、観光用の印刷物のようなものだった。
北アルプスやワサビ田、道祖神、田園‥‥
「ここには地域で生き生きと生活している人の姿や顔が抜け落ちています。」
スイスでは、観光ポスターには人がいる写真を使っている。
そうすると人がその地域で何をしているかが見えてくる。
スイスでは、国民、地元民が楽しんで、地域の総合力で地域振興を推し進めている。
日本人は地元を知らない。
地域への愛情をもって、住民自ら地域を知り、誇りをもつことが大切なのだ。
安曇野の住民が自分たちで、地域を育て、ライフスタイルを作り上げていくことによって
安曇野らしさ、安曇野の魅力が生まれてくる。
山田氏の提言はおおよそこんなところだった。


涌井氏が学生時代に見た安曇野の景観から30余年、
この間に変わったものは何だろう。
行政は、農地からの宅地転用を規制し、建物の建築基準をもうけ、高さなども規制してきた。
我が家の近くにある紡績工場も飲料メーカーも、低い建物の周囲に高木の緑地帯を作っている。
だが、旧村の周辺にできていく新興住宅地は高い木々のコートで覆われることなく、
派手な色合いも混じり、景観に違和感をもたらしている。
古くから住んでいる人たちも、家を建て替えるときには、より快適で、利便性がある現代建築に変えていく。
農民の暮らしも、大型機械がまたたくまに稲や麦や蕎麦を植え、刈りとってしまい、
昔のような、田の神様を大切にし、田畑で一日汗をかく労働の風景を見るのも少なくなった。
家族総出で共に働き、地域住民が共に力を合わせ、交流した、濃密な人間集団はもうない。
盛んだった養蚕は、今は皆無。
広域農道は、商業施設が立ち並び、のぼりや看板を目立たせている。
リンゴ畑が広がる三郷の山麓地には、地元民の承認なしに、産業廃棄物処理場が建設され、
それに対して孝夫君や、暁生君、望君らも地元住民と共にNOの運動に加わってきた。
大王わさび田の林の上には、近くの工場の高い煙突がそびえたった。


穂高西中学校では、子どもたちに、「20年後の安曇野はこうなってほしい」というアンケートをとっている。
子どもたちの考えは、「もっといろんな施設を作って、便利で楽しい町にしてほしい」という開発型と、「自然を守りながら店もふやしてほしい」というバランス型、そして「自然を取り戻し、自然を守っていく町にしたい」という環境保全型に分かれるということだった。