「希望社会への提言 2」


   「希望社会」を実現させる市民力は?


「希望社会への提言 2」が掲載された(朝日新聞 11/6)。
「地域連合国家・ニッポンへ」という見出しで、
「暮らしにかかわることはすべて地域政府が決め、
そこでできないことだけを中央政府に委ねる。
地方自治体を地域政府へ進化させ、行政、財政、立法の権限をもつ本物の自治体にする。
地域政府が中央政府と対等な立場で役割分担する。」


このビジョンを実現させようとすれば、
たちどころに、地域政府の自治能力や如何、という問題にぶつかるだろう。
欧州連合(EU)では、福祉や教育などでは地域に権限を渡し、イギリスやフランスでは90年代後半から、
地域にできることは地域が行い、できないことだけ、より大きな自治体や国で補完するという、大規模な制度改革が行われているという。
日本の地域社会に、はたしてこのような自治能力が育っているかどうか。


以前ぼくの住んでいた奈良の田舎の市は、財政破綻寸前にあった。
地域の利益誘導をになう人物が議員になるという旧態依然とした体質が存在していて、
問題を膨張させていた。
その市に移住して初めての市議会議員選挙が近づいたとき、我が家に一升瓶をもって村の八百屋のおじさんが挨拶にやってきた。
八百屋は地元立候補者からの挨拶ですと言う。
選挙活動の期間に入ると、選挙公報が来ない。
どんな人が立候補しているのか、どんな公約を掲げているのか、さっぱり情報がない。
選挙管理委員会に訊ねると、
「公報を出す予算がおまへん。」とにべもない。
予算がないから何もしない、ということだった。
選挙で地元の立候補者は当選した。
しかしその後、その議員はどんな活動をしているのかさっぱり分からなかった。
近所のおばさんに訊くと、一刀両断、
「あの人は議会では居眠りですわ。税金泥棒でっせ。」


「地域の有力者」という言葉がある。
地域の中で信頼される世話役をしている人や、よきリーダー役を発揮している人もいるが、
君臨している地域ボスもいる。
そのころ、わが町の区自治会にもボスがいた。
不満はぶすぶすくすぶるが、表に出てくることはなく、
ボスに面と向かえば迎合する。
「厄介な問題がいろいろあっても、ボスに任せておけばいい」、という依存体質がどっかり存在し、
それは無責任体質でもあった。


企業の違法行為が、このごろよくニュースに登場する。
内部告発されて、違法が発覚し、企業は存亡の危機に陥ることもある。
会長や社長が、お詫びの会見をするこれらの事件は、幹部が違法行為を行っていた。
会長や社長がワンマン、権力者であると、組織内の自浄力が働かず、よって内部告発されることになる。


政党、官公庁、企業、法人、学校、共同体、およそ組織という組織、集団という集団には、構成員による力学が働いている。
そこに民主的な組織運営、集団構成のリーダーシップ、メンバーシップが育っているか。
それが日本の場合、熟成してきているかと問えば、
戦後60余年経ているにもかかわらず、なぜかくも‥‥、という気持ちになる。
ボスが君臨している集団では、ボスのA論に対して、異論のB論、C論が影を潜ませる。
したがって多様な論議が行われず、過ちが起こりやすい。 


学校のなかでの「集団づくり」の教育は、将来の民主的な社会を作っていくための教育なのだが、
たとえば実地の教育活動である学級会、児童会、生徒会、学生自治会などが、どのように自分たちの手で、みんなの力を合わせて、学校生活をよりよくするために活動を行っているか、
現場を見れば一目瞭然である。
これらの活動が生き生きと行われている学校は、教育活動全般も生き生きと充足している。


朝日新聞の社説の提言は、こういう実態だからこそ、必要なのかもしれない。
「希望社会への提言 2」の中に、
全国学力調査自治体で唯一拒否した愛知県犬山市の事例が書かれていた。
これは貴重なデータである。
犬山市は、地方分権を先取りして、少人数授業など独自の実践を行ってきた。
市費で教員を増やし、市費で独自の副教本をつくって無償配布、
校舎は古いが、「人づくり」には金を惜しまない。
副教本づくりは、作成委員の教師が原案をつくり、それを公表して他の教師や保護者から意見を求める。
こうして手作りで自主教材を生み出し、子どもたちの学力を向上させてきたというのである。
だから、文部科学省や県教委の圧力をはねのける力も持ち合わせている。


地域の実態は、まだまだ多くの問題をはらみ、民主的な自治能力は足りないかもしれないが、
先進的な実践を創造していく地域が生まれてくれば、
そこから学ぶことができる。
能力がないと否定することでは何も進まないことは確かだ。