「紅棗(なつめ)がみのる村から」


  


          新しい歴史をつむぐ人


松本市中央公民館で開かれていた「紅棗(なつめ)がみのる村から」写真展を観てきた。
「紅棗(なつめ)がみのる村から」というブログをインターネットで見つけたのは、いつだったか。
ときどき開いては読んでいた。
何ともいえない素朴な人間味の溢れる黄土高原の村人たちや、
そこに住んで、住民と生活する執筆者の大野のり子さんの人間性が、
ほのぼの温かく、
いったい大野さんという人は何ものだろうと調べてみると、
松本市にある通信制高校のスタッフであることが分かり、
その高校の生徒も黄土高原を訪れて、住民と交流している。
信濃むつみ高校」、このようなユニークな、志の高い学校があったことに驚いたのだった。


写真展の入り口に、大野さんの文章が掲示されていた。
その文章から伝わってくるものは多く、心惹かれ、感銘深く読んだものだから、
ここにぜひ書いておきたいと思う。


「2003年10月、北京行きのバスが土砂崩れで迂回路をとった結果、
私は黄河の畔にひらけたとある小さな村に降り立ちました。
高原のてっぺんまで耕された段々畑には、
なつめの実が紅く熟し、今まさに収獲を待つ季節でした。
思えばそのとき、石段の陽だまりに座って孫たちを見守っていたひとりの老婦人から、
『どこから来たの?』と問われたことが、
私の長い旅の始まりになったのです。
『日本から来ました』という私の答を聞いたとたん、彼女の日焼けした顔はみるみる憤怒の色に染まり、
唇から激しい言葉がほとばしりました。
偶然訪れたその村が、”三光作戦”の村であり、私が戦後初めてやってきた日本人であることを、私はそのとき初めて知ったのです。
翌2004年8月、私は6人の学生たちと共に、再びその村を訪れました。
前年会った老婦人は、私との再会を心から喜んでくれ、彼女の紹介で私たちは84歳になる陳老人から聞き取りを行ったのです。
黄河を見下ろす高原のてっぺんにある、くずれかけた石造りの薄暗い部屋の中で、盲目の老人は、
母親を生きたまま焼かれた過去を淡々と語りました。
彼の口からは一度として激しい言葉が発せられることはなく、
遠い昔の記憶を静かに手繰り寄せ、自らかみしめるような口ぶりでした。
そして最後に、60数年ぶりの日本人の来訪をどう思うかという私たちの問いに、彼は一呼吸おいた後、
『感動した。ほんとうに遠いところをよく来てくれた』
『今日聞いたことを、日本に帰ったらみんなに伝えてほしい』
と応えたのです。
過酷な自然環境と社会条件の下に、今も常に貧困と向き合わねばならない村人たち。
政治の言葉で語られる補償や謝罪とは一切無縁に、
過去の記憶をひっそり抱いたまま残り少ない生を生きる老人たち。
私は彼らが60数年もの間、”私たち”がやってくるのを待っていたのだと考えました。
そして同時に、これ以上は待てないこと、
つまり証言者たちがどんどん亡くなっていくという現実を目の前にしたとき、
私は待たれていたことへの責任を、自分なりに果たしたいと考えたのです。
2005年6月、北京を引き払って、私は”紅棗がみのる村”に転居しました。」


こうして大野さんは、”国家級貧困地区”に指定されている村で、村人と生活を共にしながら、
黄土高原の尾根や谷筋、どんな小さな村に行っても、日本軍の歴史が存在することを聞き取っていった。
それは、一日2食、洗面器1杯の水を使いまわし、30ワットの電灯を点け惜しむ生活だった。
大野さんは、今も黄土高原にいる。
前文の最後に書かれている、”老人たちの記憶を削り取ったり、変更したりすることはできない”が、
これから”新しい記憶をつむぐ”営みは、現代に生きるものがやるべきことであり、やれることではないかという、
大野さんのこの思想と実践は、その地に入り、その地のナマの人間に触れたことから生まれてきた。
”新しい可能性”に向けて、大野さんの長い旅はこれからも続く。
11月10日、写真展会場で、この夏、黄土高原の村を訪れて2週間過ごした高校生二人が、体験を語る。