「希望社会への提言 1」




今朝、羊雲が秋空をおおっていた。「秋は喨々と空に鳴り‥‥」


           希望の国、希望の町

10月29日の朝日新聞の朝刊は、1面全部を社説にとり、
「希望社会への提言1」を掲載していた。
これから週1回、シリーズでこのテーマの社説を掲載するそうだ。
「生き甲斐や働き甲斐があり、病気や年をとったときに生活を支える仕組みある社会。
そんな希望社会をつくるにはどうしたらいいか。」
という書き出しで始まっている。
「連帯型の福祉国家へ」の提言である。


経済協力開発機構OECD)の先進国27カ国の中で日本は、
「低福祉・低負担」の国であり、
「高負担・高福祉」のヨーロッパ、特に北欧とは大きく隔たっている。
これから年金・医療・介護などの高齢者向けの福祉を維持し、
欧州に比べて貧弱な、少子化対策、失業対策、雇用対策、さらに教育にもっと力を入れていくには、
せめて「中福祉」の国にしていくべきだ、という構想の提言。
具体的には、
身近な市町村へ権限や財源を徹底的に移し、
そこが自由に工夫して、福祉や教育などのサービスを提供する。
年金のような一律の現金支給は国が、
医療・介護・教育のような現物支給のサービスは、事情が分かっている地域が担うという仕組み。
それを実行していくには自立した「地域政府」が必要で、
そこに非営利組織(NPO)などの市民が参加する。
企業も社会の一員として加わる。
そのような連帯の輪が、希望の持てる福祉社会を生み出す市民参加の21世紀型民主社会となる、
これが提案の大まかな姿である。


「この国には何でもある。だが、希望だけがない」と言った、
村上龍の小説「希望の国エクソダス」の少年の発言に見るように悲観論が横溢している。
それに対して、
「失望を乗り越えた希望こそ本当の希望」と発言する、
希望学プロジェクト」を立ち上げた東京大学玄田有史教授は、
玄田の岩手県釜石市の実地調査がら、
「希望をもたらすのは漠然とした願望ではなく、
『将来についての具体的な展望』であるという。


さて、どんな提言が出てくるだろう。


一人一人のやれることはたかがしれてる。
しかし、小さくても大きい。
具体的な小さなことでもつながっていけば社会に広がる。
この日本、案外たくさんの知られざる社会的行為が、
組織的あるいは個人的に行われていて、社会を支えている。
それらの行為・実践が、ほとんど新聞やTVに取り上げられない。
ニュースになるのは、「またか」と悲観を増大させる事件ばかり。
嘆いていても、悲観していても、怒っていても、何も変わらない。
自分の今いる位置で、絵を画いてみると、やれることがある。
それが展望を生み出す。


市民が、学校に入って、子どもたちに本の読み聞かせをしているグループがある。
朝の、教師が職員打ち合わせをしている間、
おじいちゃん、おばあちゃん、父母たちが、教室に分かれて入って、本を子どもたちに読んでいる。
中学生・高校生が、保育園に出かけて、絵本を読んでいる。
ポン菓子店のおじさんが、自分の店を遊び場にして子どものベーゴマ遊びグループをつくっている。


教師は教師の位置から学校で地域で、子どもに対し、子どもと共に、できることがいっぱいある。
市町村役場の職員が地域に出て、その職務を創造してできることは限りなくある。
商店も町工場も何かやれる。
展望は描かないと生まれない。
何がやれるかな。
何をやるかな。